山陽道 | |||||||||
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山陽道は西宮から下関に至る道で、古代日本の中心であった都と九州の大宰府を結ぶ重要な幹線 道路として発展した。 その後一時期重要性がやや薄れた時代もあった。江戸時代に瀬戸内水運が 繁栄するにつれ情報、物資の運送連絡は海運が 主力になった。五街道の制定と共に、西国街道は 脇街道に格下げになったが、西国大名の参勤交代の重要な路として賑わった。 |
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1.西宮から三宮 2.三宮から明石 3.明石から姫路 4.姫路から有年 5.有年から伊部 6.伊部から吉備津 7.吉備津から井原 8.井原から尾道 9.尾道から本郷 10.本郷から西条 11.西条から西広島 12.西広島から玖波 13.玖波(大竹市)から玖珂 14.玖珂から新南陽(徳山) 15.新南陽から新山口(小郡) 16.新山口から小月 17.小月から下関 |
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平成24年4月27日 (金曜日) 西宮、神戸は晴れ | |||||||||
西宮から三宮 | |||||||||
京都、西宮間が2日で終わったので、今日はおまけで来月歩く予定の山陽道の小手調べで少しだけ歩いてみることにした。 昨日と変わって関西方面は朝から晴れている、これは暑くなりそうだ。 9時46分、西宮神社の東南角の道標前を出発、遠く下関まで続く山陽道の第一歩である。 出発してすぐ右に街道が分かれていく、 5分ほどで阪神香露園の駅に着く、少し阪神の線路の下を歩く、海の近くを行く浜街道と別れて、打出駅の手前で右にはいる西国本街道を行く 、芦屋市の春日町の角にある道標と地蔵様を見て進み、打出小槌町という縁起のいい名前の街を歩く、街路樹の陰も涼しげである。 打出駅の少し先に芦屋で最初の橋と言われる、西国橋を通る、時計は10時22分、進むと国道2号に合流するので、左に折れて少し南側を 歩くことにする。 阪神線の近くまで来て西に方向をとる、静かな落ち着いた街が続く、芦屋警察署を過ぎるが、警察までも素敵に見える。 芦屋川を渡って神戸市に入る深江、青木と駅への通りを通過するがこれは山陽道ではない、坦々と道を進むこの道はかなり長い。 右手は六甲の山並みが近く見え前方中空を電車が通る、六甲ライナーだ。住吉川に出ると黒松の並木がある、あの灘学園の横を通って 国道2号に合流する。時計は11時半になっている。 |
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午前中と思って歩いているが、しかし区切りのいい場所がある、国道2号に合流し少し行くと右手に住吉神社がある。 きれいに再建されているが阪神大震災の時には社殿から鳥居まで崩れ落ちた写真を見た記憶がある、神社の傍らに街道碑が立っている。 日が照りやはり暑くなってきた、国道は自動車の通行量も多い、大動脈国道2号線である。 御影高校の手前を左に入ると一里塚橋がある、このあたりに一里塚があった名残だと思われる、この橋の東、公園のところに、 徳川道起点の説明板が立っている。 幕府が慶応3年兵庫港を開港するにあたって、開港場付近の外国人と西国街道を往来する 諸大名や武士達との衝突を避けるため設けられた迂回路であると説明されている。 さらに少し西に行った石屋川に西国橋が架かっている。 |
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国道に戻り進むと阪神大石駅の手前に都賀川が親水公園として整備されている、ここは08年7月に集中ゲリラ豪雨により夏休みで 公園で遊んでいた児童ら5人が流された事故を思い出す。 国道は西灘を過ぎると左へカーブして行くが、歩道橋を渡りまっすぐに進む、 途中には道標や説明板がたくさん見受けられる。 もう1時を過ぎている、暑いうえにお腹も少々空いてきた、が三宮までもう少し、 1時18分、三宮駅東口の街道説明板に到着。 今日はここまでとし今回の歩き旅を終えることにした。 |
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平成24年5月29日(火曜日) 神戸は晴れ | ||
三宮から明石 | ||
新横浜を6時に出発、三宮に8時40分過ぎに着く、先月の終了地点、東口の街道説明板の前をスタートする、8時45分三宮駅を過ぎて 生田神社にお参りする、9時前なので神官や紅い袴の巫女達が準備のためか集まっている、神社でもミーティングと言うのだろうか? どの業界でも開店前は忙しいようだ。この神社も震災の時の本殿が崩れ落ちた写真を見たことを思い出す。 二十数年前に縁者の結婚式にきた事があった。 神社を出て「IKUTA ROAD」をまっすぐに歩き、JRをくぐって先を右折すると 三宮神社に神戸事件発生地の碑があり、事件の概要が記してある。 神戸開港当時、岡山備前藩士の隊列の前を、停泊中の外国軍艦の乗組員が行列を横切ったことから、備前藩士と外国兵との間で、 砲火を交える紛争となった。 備前藩士の指揮者であった、滝善三郎が外国人代表者の立会いの面前で切腹して解決したとある。 これは歴史では習わなかったなあ〜 まっすぐ進み大丸の前を通って元町商店街を行く、朝の商店街は人が歩いていない、 商店街を抜けると神戸駅に来るが、その手前に兵庫県里程元票がたっている、県下各地への距離が示してある。9時38分、 神戸駅に着く、ここで街道からちょっと寄り道をして、湊川神社により、本殿に参拝する。 楠公さんの名で親しまれる、湊川神社は明治天皇の命により、明治5年に建立されたもので、建武3年(1336年)、 足利尊氏の軍勢を迎え撃ち、破れこの地で自刃した楠正成が祀られている。 朝早い時間だがもう結構団体の参拝者の姿もある。 門の右手に楠正成の墓があり、徳川光圀の筆による「嗚呼忠臣楠の墓」と刻まれている、境内にある「従是楠公石碑道」の道標は、 西国街道沿いにあったものが移されたらしい。 |
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9時、神戸駅前に戻る、西に向かっている道が何本もあって迷うところだが、信号のある通りを入って行くと少し進んだところに 西国街道の道標が立っている。 JRをくぐった先で高速道路で街道は分断される、左の信号のある七宮交差点を迂回して戻ると、 湊八幡神社がある、 前に西国街道兵庫湊口総門跡の碑と説明板があり、兵庫宿の東の入り口で総門が置かれていたとある。 この先斜めに街道は続いているが、兵庫宿があった名残りは感じられない、がその先の角に札場の辻跡の説明板と道標がある、 ここを右に曲がって柳原総門を出てJR兵庫駅の方向へ向かうのだが、また、寄り道をすることにした。 まっすぐに進み新川運河に出ると、運河に沿ってキャナルプロムナードという散歩道が整備されている。 兵庫城跡と最初の兵庫県庁があった場所の説明板が立っている、さらに進むと大和田橋の西に清盛塚と隣に琵琶塚がある。 清盛が整備した大和田の泊はこの辺りか? 札場の辻跡に戻ったのは10時50分、空が曇ってきた、JR兵庫駅を抜けて斜めに まっすぐ進み県道に合流して特に見るところもなく歩く、11時20分ごろパラパラと雨が降りだした、傘をさして歩いていると 少し降りが強くなってきた、雲はそんなに厚くはない通り雨かも知れない、ちょっと早いが昼休みにすることにした、 通りのファミレスに入る、食事中に雨が上がるのを期待して。 |
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30分ほど休んでいる間に雨が止んできたので直ぐに出発する、まっすぐ伸びる県道を行く、新長田の駅近辺は特に震災の被害の 大きかった地域、今でも空き地があったり低い建物が目に付く。 一方道路の整備は進んでいるようで、車道、自転車専用路、歩道と 区別された道路もある。 12時40分、須磨寺に着く、須磨寺は真言宗須磨寺派の大本山で境内には平敦盛の首塚、首洗いの池、また、平敦盛遺愛の 青葉の笛など多くの重宝や史跡がある。 |
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1時5分、須磨寺を出て国道2号を須磨浦公園に向かう15分ほどで須磨浦公園に着く、山が海の際まで迫っている、一ノ谷の合戦が 行われたところで、戦の濱の碑が立っている、平家の陣があった場所とされている。 山陽電鉄の線路を越して公園を行くと、 見晴らしのいい高台に出る、向こうに多くの船が行きかっている、手前に見えているのは海釣り公園か、公園には多くの句碑がある。 公園の西の端にこの合戦で熊谷次郎直実に若干16歳で首を討たれた平敦盛を供養するため建立されたともいう敦盛塚がある。 須磨寺に首塚があり、ここは胴体を弔っているのだと言う。 |
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1時48分、公園を出て国道に戻る、山が海にせり出した狭い場所に、山陽電鉄、JR、国道2号が走っている、前方に淡路島が見える、 歩道があるので心配はないが国道を自動車が通って行く、陽が照って暑い、海辺なので風がある分多少は涼しいのだろうか、 しかし2時間後にやってくる事態はこのときは考えもしなかった。 塩屋、垂水と過ぎて1時間ほど歩き2時50分、明石海峡大橋にきた。 小休止を兼ねて一休み、孫文の記念館移情閣がある、真下から見上げる明石海峡大橋の巨大さに目を見張る、30分近くゆっくりと 見学していると黒雲が急に空を覆ってきた、危ないな急ごうと思って腰を上げる。 橋をくぐった西側に舞子砲台跡がある、 幕末に外国船の侵攻に備え作られたものである。 先を急ぐ、西舞子駅辺りで雷がなりだす、雨も少し降りだした、 わずかの時間でひどい降りになった、ガストの軒先で少し雨宿りをするが大して変わる様子もないのであきらめ歩き出す。 朝霧の駅近くに来たときは膝から下はすっかり濡れてしまった、途中の稲爪神社で再び雨宿りをする。 少し小降りになったと思って歩き始める、人丸教会前を左に曲がって行くと、道標と「大日本中央標準時子午線通過地標識」 が立っているが、カメラに収めるのがやっと、雨は止まない、今日は西明石まで行くつもりをしていたが、明石駅前に来たので 今日はここまでにする。 水は靴の中までは入っていない、やむなくホテルに入り一休みしていると、なんと空が晴れてきたではないか、 雨も止んでいる皮肉なことだこんな歌を思い出した 急がずば濡れざらまじを旅人の後より晴れる野路の村雨・・・・・・・・ 残念でした 夜のニュースでは、関西地方は局地的に激しい雷雨であったと、うーん、自分は局地を歩いていたのか・・・ |
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平成24年5月30日 (水曜日) 晴れ | |
明石から姫路 | |
昨日の雷雨には参った、今日は晴れている明石駅に着いて昨日雨で寄らなかった明石城に寄る、三層の隅櫓が朝日を受けて輝いている。 公園をジョギングする人、散歩している人、足早に通過して駅の方向へ向かう人、さまざまな人が朝の始動を始めている。 公園を一回りして駅前を南下、昨日の歩き終えた本町の角を7時15分にスタートする。 この時間駅に向かっていく人が多い。 明石川に架かる大観橋を渡って右折、十輪寺手前を左折して進む。 和坂の辺りは旧街道の雰囲気が残っている、この先国道2号に合流して 西明石駅前を通過する。 時計は8時になっている、雲楽池の所から左に入るこの先で大久保宿になり旧本陣跡を通過、旧宿場の面影を感じる。 大久保駅に近づくと街道脇に明治天皇大久保御小休所建物の碑が立っている。 時間は8時45分、大久保駅前の通りを過ぎてその先で 国道2号と一緒になる。富士通の前を通りコカコーラーを過ぎて右に入る。 ここから旧道は東加古川の手前平岡小学校で国道2号と合流するまで 続いている。旧道に入ると自動車がぐっと少、なくなる、通過するのは地元の住人の車、軒先には花を育てている家が多い、 所々に道標もあって旧道を感じながら歩く、土山駅前を10時21分に通過する、一度国道と一緒になって直ぐ右に入り東加古川駅の方向へ進む。 |
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東加古川駅前を過ぎて道はショッピングセンターで途切れる、左に一度国道2号に出て迂回する、11時50分、胴切れの地蔵堂を通る。 この地蔵を深く信仰していた人が、殿様の行列の前を横切り無礼打ちにあったが、地蔵が身代わりに斬られてくれたという伝説があるという。 12時に加古川駅前にきたので、お昼の休憩をとることにした。 午前中いい天気で朝のうちは涼しさを感じて歩いていたが、 次第に暑くなってきた、しかし風もあり旧道部分が多かったので歩きにはgoood! 道沿いの店に入り靴を緩めると足もホット一息つく。 |
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12時45分、休憩を終えて出発する、寺家町商店街を西に進んだところ右側に、加古川宿陣屋跡があり、商店街一体が宿場になっていたらしい。 加古川を川風を受けながら渡り、ニッケを過ぎて右に入っていく。 宝殿駅前には尉と姥の石像が立っている、竜山石の産地で昔から 石切り場がある。石の宝殿を祀った生石神社が左手にあるが街道からは離れているので通過する。石の宝殿への道標は何箇所かあった。 生石神社の一の鳥居を過ぎ、高速道路の下をくぐっていくと阿弥陀町、正蓮寺の前に、月の砂漠で知られる、佐々木すぐるの顕彰碑があった。 JR 曽根駅の北で国道を横切って旧道を歩いていると、姫路市の別所町の六騎塚にきた。 太平記によれば、延元元年足利尊氏が大軍を率いて 九州から東上してくるのを、備後守児島範長が迎え撃ったが戦いに敗れ、最後に主従六騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したと言う。 範長主従6人の自害を弔って建立したと伝えられている。 ここで時刻は2時42分。 |
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3時20分、御着に着く、静かな街並みが残っており、街道筋には一里塚跡、公会堂の前には本陣跡の説明板などがある。街道を少し離れて 国道2号線を渡ったところに、御着城跡が公園になっている。 御着城は戦国時代、赤松氏家臣小寺正隆が築城したが、羽柴秀吉の播磨攻略 の際落城した。 園内には、黒田官兵衛顕彰碑、総石造の天川橋がある。 3時40分、街道に戻り先へ行く、4時10分市川橋を渡り姫路市街へ入る、京口門跡を進むと、東光中学校に京口門跡の説明板が立っている。 この辺り正確な旧道はわかりにくい、この先で総社にお参りした、播磨の総社で20年ごとに行われる三山祭りが有名である、 子供のころものすごい人の中を行った記憶がある。二階町を通って大手前通りに来たときは5時になっていた、今日はここで予定通り終了とする。 姫路城は平成21年から5年かけて大天守保存修理中のためすっぽりと素屋根で覆われていた。 昨日のようなことにはならず晴天に恵まれた一日であった。 |
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平成24年5月31日 (木曜日) 晴れ | ||
姫路から有年 | ||
8時、姫路駅前、西二階町を出発する、天気は今日も晴れている雨の心配はまずない、姫路城は素屋根で覆われて見ることが出来ない、 代わりでもないだろうが、歩き始めて直ぐ商店街に姫路城の大きな写真があったのでカメラに収める。 船場川に突き当たって右折、白鷺橋で国道2号を渡って旧道を進む、今宿の街を過ぎてJR播磨高岡駅の先で右にすすみ夢前川は国道を渡り 直ぐに右折、次の角を左折するが、「右、因州・伯州・作州・雲州 往来 左すぐ、姫路・大阪・京・江戸 往還」と刻んだ道標が立っている。 青山の街並を行き国道に出て青山ゴルクラブの手前で左に入りホテルの裏を通って山田峠に向かう、道は国道に合流してからずっと登っている。 山田峠で姫路市から太子町に入る、山陽道山田峠の標柱を見ながら下りて行くと、山田の集落に、明治天皇山田御小休所跡の碑と建物が 残っている。明治18年山陽道御巡幸の際、8月8日御小休所となったところでよく当時の様子を残していると説明がある。 国道から右旧道に入ると、桜井の清水、太田の地蔵様を過ぎ、小学校の前で小休止を取る。運動場では子供達が自転車の練習をしている、 お母さん達も何人か手伝いをしているようだ、自動販売機で冷たい飲み物を買い床几に腰掛けてしばらく休む。 |
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10時50分腰を上げる、鵤宿を行く、聖徳太子ゆかりの地で斑鳩寺があるが右手街道から離れているので、寄らずに通過する。 国道から左に街道は進み、林田川を渡り左に田園と集落が混在している道を歩く、揖保町今はたつの市になっているのだろうか、 山陽新幹線の高架が近づく、JRの踏み切りの手前を右折し揖保川を国道で渡り、左折すると正條宿に入る、川縁には、渡し場跡、本陣跡を通る、 昼前の町は人の影が見えない、たつの駅に来たところで近くの喫茶店に入り昼にする。 駅前のタクシーも運転手が何人か客待ちで話込んでいる・・・・客がこねえなあとでも言っているのだろうか店に入り、冷えた水を一気に飲む、 のどの奥からすーと風が吹いてくるようだ、店のおばさんと話していると、時々街道を歩く人が立ち寄るらしい。 この店も宿泊できるようになっていると、どこまで行くのかと聞かれたので、今日は横浜へ帰るので次の相生か有年までのつもりだと・・ |
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12時50分、暑い日差しが照っている街道へ出る、田圃と国道、山陽本線が右手を通っている、このあたりまだ田植えの準備もしていない、 6月も遅くなってから田植えをするのだろうか・・ 旧片島宿を通り、1時40分相生駅前に着く。 次の有年まで歩くことにする、駅前に、 「是より みぎ、さいごくみち ひだり あこうじょうかみち」 と書いた道標が立っている・ 新幹線、山陽本線の下をくぐって国道に出る。 緩やかに国道を上って鶴亀地区に来ると、明治天皇駐役蹕處碑がたっていて、明治天皇が西国巡幸の帰路ここで小休止されたと説明 されている。 太子町の山田にあったのと同じ時のものだ。 この先、若狭野地区に入り左に国道を見ながら1時間ほど歩くと又、国道と一緒になる、数百メートルほどの間歩道がなく、大型車が行き交って いるので、すれ違うときはちょっと注意が要る、もちろん運転者も注意していると思うが、立ち止まって過ぎるのを待つ、歓迎、 忠臣蔵のふるさとの看板に迎えられて赤穂市に入る。時計はは3時、10分ほどでJR有年駅に到着。 家に帰るので今日はここで終えることにする、暑い中の歩きだったが無事終えたことに安堵する。 後は電車に乗って帰るだけ。 |
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平成24年6月24日 (日曜日) 晴れ | ||
有年から伊部 | ||
9時45分、有年駅を出発する、梅雨の時期で長期の予報を見てはきたがあまり天気は期待できそうにないと思っている。 しかし兵庫県西部、今日はいい天気になっている。 駅から国道に出て直ぐに鳥取方面を示す道標がある。千種川を渡る、 この川の上流、佐用では昨年の集中豪雨で大きな水害が発生し、人命を含む多大な被害が発生した。 橋を渡って国道を離れ東有年の旧有年宿に入る、10時21分、有年宿番所跡に着く、旧松下家で赤穂藩役人が出張の際に宿泊し、 前庭を白洲にして番所として利用していた。 国道を渡って片山に入ると直ぐに有年家長屋門がある。 大きな白壁の長屋門が目に入る、 赤穂市に残っている長屋門は、大石良雄宅、近藤源八宅とこの有年家の3軒だけで、赤穂市の指定文化財になっている。 西有年に入ると、西有年五輪塔、一里塚跡を通って道は坂折池から有年峠へと向かうが、ここで国道に出る事にした。 前に歩いた人達のホームページを見ていると、この先で道に迷って引き返したり、無理やり茂みを踏み越したり、道がわからずゴルフ場へ 出たりしているのを見ていたから。 国道2号線は大型のトラックは通っているが、このあたりまで来るとさすがに通る頻度は少ない、 また何台か通ると次に来るまで少し時間がある。 鯰峠の上りにかかる、ガードレールで別れているので歩くのには安心、 上りが続く頂上に着くまで10分かかった。 途中に赤穂国際カントリークラブの入り口がある、このゴルフ場のどこかに出てきた人がいたんだなあと思った。 峠を下って梨ケ原に入る。 梨ケ原・宿遺跡の説明板を通過する、時計は12時、近くに健康広場があったのでそこで昼にし、 有年のコンビにで買っておいた、おにぎりを食べる。 地域の人たちがゲートボールでもするのか、ベンチがあり、屋根もついている、 今は誰も人影はない。 |
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12時25分、出発する昼過ぎの梨ケ原の街はうそのように静まっている、道筋の要所に木製の手作り街道標示があって親切だ。 12時33分、山陽本線の踏み切りを渡って船坂峠の上りにかかる。 歩行者・自転車専用道路になっている、新道が出来る前は これが国道2号線だったのだろう、左下をJRと国道がトンネルで抜けて行く、こちらは坂を上っていく木陰になっているので案外涼しい、 頂上が船坂峠で兵庫県と岡山県の県境に立っている、県境碑が立っている、国境碑もあるはずで行きつ戻りつして探したが 見つけることが出来なかった。現在の峠より大分上にあるはずなのだが・・・ 時計は12時50分、峠を下ると三石に入る、石垣の上に一里塚跡と書いた木の表示が出ている、さらに7〜8分歩いた三石駅の 下の曲がり角に三石一里塚跡の石柱が立っている、どっちがほんとうなのか?・・ 三石と言えば我々の年代では耐火煉瓦の産地として 習ったものだが、今もレンガを製造しているのだろうレンガと書いた煙突が見える。 三石を後に国道で山間部を超えていく。 |
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三石からJRの下をくぐって国道2号に出る、ここは歩道があり弟坂、兄坂とカーブしながら山間部を通っている、山陽自動車道備前インター を過ぎたところに、八木山一里塚跡、明治天皇八木山御小休所阯、御幸碑が並んで立っている、八木山を過ぎて四軒屋で国道から右に入る 散歩中の人としばらく一緒する、左に国道が走っているが以前はこれが国道2号線だったと言う、トラックもせいぜい4トン車ぐらいだったのか・・・・・ 街道左に藤の棚茶屋跡と記した標柱が立っている、江戸期備前藩主の休憩所があり、湯屋もあったと説明がある。 今は白壁の建物があり備前焼のギャラリーになっている。 時計は3時15分、国道を少し歩き左へ下りていく片上の海が少し見えている。 片上の街もまた静か、街道のあちこちに、史跡を標示する標柱が立っている。 その中で日本売薬・備中売薬の祖「万代常閑翁」跡があって、第11代万代常閑が富山に返魂丹を伝授したと記してある、 富山の薬売りの元はここだったのかと思った。 明治天皇行幸の地を通り、坂を上がって行くと葛坂峠で、お夏茶屋跡がある、 前方に伊部の街が広がってくる。 峠を下りて備前焼の里・伊部の街に入る、スーパー駐車場の横をいくときれいに整備された 街道の両側に備前焼きの看板とギャラリーが並ぶ、生活実用品が多いようだ。 駅前通りに来たとき時刻は4時半過ぎ、 今日はこの伊部の街道に沿ったホテルで泊まることにしている。 まだ早いので街をブラブラ見学することにした。 5時50分にホテルに着く、本当に街道脇に建っている、主人にあすの天気を尋ねると、大したことはないよと、少し気休めを行ってくれる。 心配してもどうにもなるものでもないし、部屋に入って汗を流しゆっくりと休んだ、100メートルほど離れた大きい池の中を 山陽新幹線が走り抜ける。 |
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平成24年6月25日 (月曜日) 岡山地方は晴れ | |
伊部から吉備津 | |
5時に目覚める、そっとカーテンを開けてみる、やっぱり降っている雨が・・・ 昨日の予報でも瀬戸内沿いは雨だった、まあしかたがないか、 出発するまでに2時間あるしその間に少しでも小降りになればと思い直す。 6時半、朝食が始まる、まだ降っているがなんとなく明るく小降り になりそうな感じ、食事を終えて出発の準備をしていると雨が止んできた。 それでも傘を手にしてホテルを出るとなんと止んだではないか、直ぐに街道に出る、右手山際に備前焼きの里の文字を眺め、大ケ池の畔を歩く 池の中を新幹線が、池の向こうを国道とJR赤穂線が通っている、7時半、香登の町に入る、通学の小学生達が元気な挨拶をして行きすぎる、 タスキを肩にした見守り隊の大人が道に出て見送っている。 香登の一里塚の北塚が大内神社に残っている。 街を過ぎ左に大きく曲がって新幹線をくぐり国道に出ると、備前おさふね 刀剣の里の 大きな看板が目に入る。 左手先の方が長船の街になるが、街道から離れているので寄らない、ずっと先に見える備前大橋まで国道を歩くが 歩道がない、自動車がたくさん通っているので国道下の吉井川河川敷を歩く、雨で草が濡れているが危険な国道を行くよりはいい。 備前大橋を渡ると岡山市になる、常夜灯や街道碑が立っている一日市を過ぎ、田園地帯を岡山へ向かって歩く。 時計は8時50分を指している。 |
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9時半、上道中学校を通る、校舎壁面に陸上競技全国大会3位入賞者と上位入賞者の名前が掲げられていた。 学校の先の田園地帯に出ると、ぶどう畑が目に入ってくる、岡山はマスカットの産地、このぶどうがそうかどうかは知らぬ。 赤坂の集落を過ぎると、遠くに小高い山が見えてくるのは、宇喜多直家の拠点となった、亀山城跡らしい.国道山陽本線、新幹線をくぐって 線路の北側に出る。 明け方の天気はどこへやら、暑い日差しが後方からさしかける、10時35分藤井宿に着く。 総社八幡宮の前に説明板があり、藤井宿は西国大名が岡山通過後、最初に休泊する地として賑わったと、藤井宿をすぎたところの分岐点に、 新往来の説明板があった。 幕末長州征伐に赴く諸藩の藩士が岡山城下を通過するのを回避するため、一時的に山陽道の岡山城下の通過をやめ、 ここから北方を迂回させたということだ。 新幹線、山陽本線を渡って東岡山駅前通りの長岡郵便局の前に「岡山・玉島道 神戸・大坂・京道」と書かれた道標が立っている。 自動販売機で飲み物を買っていると中からでてきた男性が入って休んで行けと言う、あまりに熱心に誘ってくれるものだから、 つい言葉に甘えて中に入ってビックリ ! 壁や棚いっぱいに藁葺古民家のスケッチやミニチュアーが飾られている。 藁葺き古民家のスケッチをしているそうで、岡山県下100軒の藁葺き民家描いたスケッチ集を出版している。 地元NHKの番組にも採り上げられた、 花房明夫氏で、私のかっこうを見て同じ趣味の人間だと感じたと言う、ただ歩いているだけの自分とは大違い、話が弾んでつい長居をし、 腰を上げたときは11時35分になっていた。 12時ちかくなったところで、街道沿いにあった和風中華レストランに入り昼食休みにする、混み合っている店で順番待ちをしているグループもあったが、 幸い1人なのですぐカウンター席に座ることが出来た。 |
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食事後早々に店を出る、百間川を渡って岡山市街に入り、12時47分惣門跡を通過、説明には、天正元年(1573年)宇喜多直家が岡山城下の入り口として 惣門番所を設けた跡だと。 森下町の通りを抜けていくと角に幕末から続く吉備団子の老舗、廣栄堂がある、ここを右折して旭川に架かる、 小橋、中橋、京橋を渡ると左に道路原票がありその先に、岡山県里程原票、道路を挟んで北側に迷子の道標が立っている。 思っていたより早く岡山に着いた、時計は1時10分、商店街を抜け、駅前の通りにきたところで、後楽園、岡山城によっていくことにする。 月見橋を渡って、南口から後楽園に入る、入園料140円、シニアである。 日本三名園の一つとして、いわずと知られる後楽園は、岡山藩池田家2代目藩主、池田綱政公の命で、元禄13年(1700年)に完成したもの。 明るくて広い園内には今の時期、花しょうぶと蓮の花が咲いていた、また池田公が舟でここを訪れた、船着場、御舟入跡の発掘が行はれていた。 後楽園を出て、岡山城に向かう、旭川でボートに乗っている人のなんと気持ちよさそうなことか・・・ 廊下門から城内に入り天守閣に登る、先ほどの後楽園が下に見え岡山市街を一望に、遠くこれから歩く吉備路の方まで見渡せる。 岡山城は天正元年(1573年)、宇喜多直家が当時この城主であった、金光宗高を滅ぼし入城、その後、実子秀家が、慶長2年(1597年)に 8年の歳月を費やし壮麗な岡山城を完成させた。 黒い下見板張りの外観から烏城と呼ばれる。 城の見学を終わって城外へでたのは2時半、夏の日はまだまだ永い、今日は岡山に泊まることにしているので 、この先JRの駅の連絡のいいところまで歩くことにする。 |
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街道に戻り、わかりにくい地下道でJRをくぐって岡山駅北の長い奉還通り商店街を通り、備前三門の駅を過ぎると、高校野球の強豪関西高校がある、 下校時間と重なって大勢の高校生とすれ違う。 旧街道らしい道を歩き、矢板宿を過ぎて行くがこの辺りはJRから遠く離れている、次は備前一宮駅が街道に近い。 備前一宮駅の南吉備津彦神社の参道入り口に4時10分に着く。 数百メートル入ったところに神社があるのでお参りする、ここは備前の国の一宮である。 お参りをすませ駅近くまで来ると、ちょうど駅を列車が出発している、次の列車までは30分は時間があると思うので次の、吉備津駅まで行く事にする、 線路は斜めに通っているが、道は三角形の二辺を歩くような形になる。 左に見えている吉備中山の北東麓に吉備津彦神社、北西面に吉備津神社がある、2キロも離れているのだろうか ? 4時45分、「従是東備前國」の国境碑を通過する、かっての備前と備中の国境である、続いて直ぐ先に真金の一里塚がある 、岡山から二つ目の一里塚でわずかに面影が残っている。 吉備津駅近くに来たところで今日はここで終わりにする、時刻は5時、 列車で岡山に行きホテルへ入る。 40キロちかく歩いたか 陽射しの中を歩いたので手首に時計の跡が白く残っていた。 |
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平成24年6月26日(火曜日) 吉備路は晴れ | ||
吉備津から井原 | ||
7時16分、岡山発の吉備線に乗って、吉備津へ7時40分に着く、吉備津神社に参拝、こちらは備中の国の一宮、吉備津神社は第4代崇神天皇の 御代に四道将軍として吉備国に派遣された、吉備津彦命を祭神とし古代吉備地方の総氏神として崇敬されている。 街道に戻って昨日の続きを歩く、8時過ぎ板倉宿に入る、通学の中高生と出会う、遠方から通学するのか自転車が多い。 右手、北のほうには、羽柴秀吉の高松城水攻築提跡があるが離れているのでよることは出来ない。 田園の中に集落が混在している道を通って足守川をわたり、鯉喰神社を過ぎる。 新庄までくると右手に造山古墳が見える、 岡山市から総社市にはいると、右手アカマツ林の中に国分尼寺跡がある、伽藍の配置に従った標柱が立っている。 さらに5分ほど行くと、田園の中に立つ五重塔が見えてくる、備中国分寺である。 国分寺は国分尼寺とともに、鎮護国家を祈るため、天平13年(741年)聖武天皇の勅願によって建てられた官寺である。 現国分寺の前に国分寺跡があり、伽藍の配置が標柱で示されている、現在の国分寺は真言宗御室派に属している、れんげや菜の花の時期は 本当にきれいだということだが、いまの田植えが終わった田園風景の中に立つ五重塔も凛として見える。 街道に戻ると当時の名残りをとどめる三宅酒造がある、宿の街を過ぎ、山手の集落を通って10時に山手一里塚に着く。 田園地帯を通り県道に合流、清音に向かう道が坦々と続く。 |
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伯備線を渡り高梁川をわたると川辺宿に着く。 川辺橋を渡ったところに矢掛本陣14Kの標示が出ていた。 川辺一里塚碑、川辺本陣跡をみて川辺の街を過ぎる、時刻は11時過ぎ、国道に合流、日差しは後方から、帽子の中にタオルをたらす日除けになって 幾分涼しい、真備町に入る、倉敷市になっている吉備真備の出生地らしく、あちこちに縁の名前が見受けられる、店先には吉備真備の日本酒もあった。 駅も吉備の真備駅である、昼にはちょっと早いかと思って歩いているうちに、田園地帯にきた、左に井原鉄道の高架が通り、たまに1両の列車が 過ぎてゆく、小田川はゆったりとした感じで流れている、ここまで来ると店がない、街道はほぼ国道486号と重なっている。 12時57分に吉備大神宮に着く、境内に入ると囲碁発祥の地の記念碑がある。遣唐使として二度も中国にわたり、その際に持ち帰ったと言うことだ。 吉備大神宮を出て矢掛町に入る、矢掛の街ももう直ぐか思ったが、三谷駅を過ぎて、田圃の中をゆくまっすぐな道が遠く感じられる。 旧山陽道の標示をみて左に曲がり矢掛宿に入ったときは時計は1時50分になっていた。 矢掛一里塚を過ぎる、白壁の家が続き往時を彷彿とさせる、矢掛脇本陣、高草家が、ついで旧矢掛本陣、石井家がある、代々庄屋を努めるかたわら、 本陣を兼ね、元禄のころから、酒造業を営んでいたと言う。昔の面影をよく留めた街並みである。 ここでようやく昼飯にありつけた、時刻は2時20分になっている、食事をしながらテレビを見ていると、国会中継で税と社会保障の 一体改革の賛否の投票が行われるようであった。 |
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2時40分、井原に向かって出発する。こんどは正面から日差しを受ける、街道には所々に山陽道の標柱や一里塚の石柱が立っている。 井原鉄道は右手になっている、小田川は左、小田の駅を過ぎ、堀越の集落を過ぎると井原市に入る。 早雲の里駅を過ぎて国道から右に入る、北条早雲の生誕地はこの近くらしい。 4時26分、旧山陽道(参勤交代街道)と書かれた木の標柱を過ぎる、 昔の面影を感じながら歩いていると、 4時42分に今市駅本陣跡を通過する。ここは矢掛と七日市の間の宿、情緒ある街並みを過ぎて、小田川の日芳橋を渡ると七日市宿にに入る。 川岸に、川越し上り場跡がある、本陣跡を過ぎて井原駅前にきたところで今日の終わりとし、井原の歴城荘に向かった、5時半ホテルに到着した。 暑かったが見所もいっぱいあった今日の街道歩きだった。 |
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平成24年6月27日(水曜日) 曇り | ||
井原から尾道 | ||
朝7時にホテルを出る、今日は一日当地方は曇りらしい、歩くには好都合。 井原駅前にきて、昨日の続きを歩く朝の静かな出部の街を抜けると、 大曲にかかる、曲がり角に説明板があり、旧山陽道では単調なたびに変化をつけるため一里塚と共に大曲が作られた。 戦乱の世には東西に走る敵の数を調べるのに都合よく、また、参勤交代の時代には殿様が駕籠を止め前後の行列を眺めては長い旅を続けたとあった。 大きく右に曲がっていくと、高屋宿に入る、高屋は中国地方子守唄発生の地とのこと、駅名も子守唄の里高屋駅となっている。 高屋の街を過ぎると、県境の碑がたっている、ここから広島県に入る。 3日前に兵庫県境、船坂峠を越してから、今岡山県を通り過ぎる、時刻は8時。 街道には一里塚跡や常夜灯があって旧街道らしい雰囲気が残っている。 8時45分備後国分寺跡に着く、ちょっと寄ってみる、参道を入ると当時の伽藍の配置が説明板と共に立っている、その奥に山門があって 現国分寺がある。ここは真言宗大覚寺派に属しているらしい。 10分ほどで街道に戻る、庭に坐像が立っている菅茶山記念館の横を通って、高屋川の堤を歩いて9時20分、神辺宿に着く。 |
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神辺宿にはいると、廉塾・菅茶山旧宅があり、説明には、菅茶山は神辺の東本陣(酒造業)に生まれ、京都で朱子学を学び神辺で塾を開き 全国から学生が集まったまた当世随一の漢詩人である・・・・・・とある、そういえば途中の上御領の一里塚と並んで、菅茶山の詩碑が立っていた。 東本陣跡は木製標示が架けてあるが、民家のガレージになっていた・ 街道を歩いていると、旧山陽道神辺駅跡の石柱に太閤屋敷跡と刻まれている。 豊臣秀吉が朝鮮の役の帰途立ち寄った館があったらしい。 その先には古さびた、神辺宿本陣が残っている。 地方の名家に多いことだが、やはりここも代々酒造業を営んでいたと。 一部は消滅しているが本陣関係の施設の大部分は現存している、一般公開しているが土日だけらしい。 神辺を後に尾道に向かう、街道脇の石碑、石柱を見ながら芦田川を渡り、山ぎわの田圃の中の道を歩く。 途中の郷分幼稚園では、園児達がプール遊びに夢中、日差しはなくても気持ちよさそうだ、入れてもらいたい気分になる。 山陽自動車道の下を通り福山市の山手町に入っている、左遠くに住宅が見えているのは福山の街、11時30分、江良の一里塚を通る。 新幹線の高架が見えるしたを抜けるとJR山陽本線の線路が左から近づく、備後赤坂駅ちかくのラーメン屋で昼食にする。 朝、井原をでてから5時間歩いているので少し足も疲れている、店の主人と話していると、尾道まではまだ遠いよ、3時間はかかるだろうと言う。 この先、坊地峠越えが待っている。 |
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12時40分まで休み出発する、国道2号線とJRを左下に見ながら松永に入る。 駅前に続くとおりをすぎて少し行くと、今津宿本陣跡がある、 時刻は2時。 今日は自宅へ帰るつもりだが尾道までは着きたいと思っている。 東尾道の手前、高須八幡神社の前を右に入って行くと、恋の水碑と地蔵堂があるいわれは何なのだろう ? 掘出地蔵を過ぎ、右ちかみちと刻まれた道標を右に行くと高須一里塚跡の標示がある、ここから坊地峠に向かうが、西瀬戸自動車道と 国道バイパスのインターチェンジが出来ていて道がわかりにくい。 ガソリンスタンドで教えてもらい、バイパスをくぐっていくと急な登りになる、 ここを上ると坊地峠に着く、従是西 芸州領の国境碑が立っている、道路の反対側には 従是東 福山領の碑もある。 街道を見下ろすように福山藩の番所がある、全国で3箇所しか残っていない番所跡の一つということだ、時計は2時50分になっている。 ここから一気に尾道へ下りていく、JRをくぐり、国道2号線をわたって、右折し商店街を通って尾道駅に向かう。 ここで見るところもあるのだが、尾道は次回とし駅に急ぎ3時16分駅に着く。 電車で福山に向かい、新幹線で帰路についた。 |
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平成24年9月22日(土曜日) 晴れ(尾道) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾道から本郷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夜中2時ころ目覚めると雨の音がしている、駅まで行くのが大変だなと思ってまた、一寝入りした。朝になると雨は上がっている。 6月26日に尾道まで歩いてから7月、8月の暑い真夏の間は休んでいたが、ほぼ3ヶ月振りに街道に出る朝である。 6時新横浜発の新幹線に乗る。今日は彼岸の中日で、のんきに旅に出ている場合ではないが、日程の都合でここしかなく、 墓参りは彼岸の入りの19日に済ませている。 福山で在来線に乗り換える、東尾道を過ぎると左手に尾道水道や造船所のクレーンが見え右には山が迫っている斜面には多くの 古寺が点在していて観光客をひきつけている。尾道に住む笠智衆と東山千栄子夫妻が子供達が暮らす東京へ旅行に出かける 東京物語を思い出しながら、10時13分に尾道に着く。駅のベンチで準備を整え出発、前回急いで通過した本通商店街を戻る. 本通商店街を西に出たところに「海が見えた、海が見える、五年振りに見る海はなつかしい」放浪記の一節を刻んだ林芙美子の像が立っている。 商店街に入って直ぐの刃物屋、山ア清春商店が一里塚跡で看板にも旧名所一里塚と書かれている。店に居られた主人に尋ねたところ、 この場所は一里塚の跡で昔は、はす向かいに石碑があったが商店街の道を整備したときになくなってしまったとのこと。 少し先の広場には奉行所跡の碑が立っている、本陣跡はしかとは分からない。 林芙美子の像のところに戻って尾道第一踏み切りを渡って駅の北側三軒町の道筋を行くと右手に、歴史を感じさせる、 創業安政元年の吉源酒造場がある、銘柄は「寿齢」。その先、三宅歯科を左折しスーパーの横を通って栗原川に架かる日小橋を渡って, 日比崎小学校へ上っていく。 時計は10時54分。日小橋を渡ってからは、きついのぼり坂、小学校の前からは石段の上りになる、グランドでは近隣の幼稚園だろうか 運動会をしている。小学校の校庭の北端を通り西側の出口から出る。この先分かりにくい日比崎の道を行く。 西国街道を行くからコピーした略図を頼りに曲がりながらの細道を行き11時20分、テルミー美容室の横に出た。 江戸時代は海岸線が入込んでいたので北の山を迂回し七曲と呼ばれる道だったらしい。 今は国道とJRは海沿いに真っ直ぐ抜けているが、さてこれでややこしい尾道の旧道は終わり、11時半、吉和小学校の横を通過、 吉和郵便局の先の食料品店で昼食用にパンとみかんを買った。
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緩やかな坂を上りバイパスの上を渡って大人峠の一里塚に着く。 尾道と三原の境になっており、三原市の4ヶ所の一里塚のうち 最東端の一里塚の説明がある。 新横浜を出るときは雲が多く名古屋の辺りまでは曇っていた、京都に着くころから日が差し始め、今広島県東部は晴れて太陽が照っている。 彼岸の中日を迎えさすがに風は心なしか涼しく感じる、少し小高いところにいるせいもあるのか? 12時2分、国道に出る、幹線道路でさすがに車の通過は多い、国道と着いたり離れたりして木原2丁目で、廣島80K東広島45K三原市街7Kの 標示を見る。毎度のことで旧道はこのとおりにはいかない、何割増しになるのか? しばらく歩き左に海に出る、コンクリートの護岸に腰を下ろし昼にする。時刻は12時20分、目の前は瀬戸内の海、足の下には護岸に打ち寄せる 波の音が絶え間なく前方には島々が見える。間を漁船だろうか舟が浮いている、なんとものどかな心静まる景色である。 12時36分、出発する国道2号を歩く左に海、右はJR、12時50分三原市糸崎に入る、国道から右に入ったところに六本松の一里塚跡がある 道路の右側に碑が立っているがJRの敷地内ということらしい。 その先直ぐに糸崎神社に着く、天平元年の創建で、境内の説明によれば、 神功皇后が西行のみぎり舟をこの地に寄せられたとき、水を献上したことによってこの水を御調の水といい、 後にこの地を長井の浦又は井戸崎(糸崎)というようになった。 糸碕神社の神門は三原市の重要文化財に指定されており、三原城内にあった侍屋敷門の一つで、明治8年生駒氏により当社に寄進され移築された、 境内には幹周13m、樹高30mの天然記念物のクスノキがある。 1時27分、糸崎駅をすぎて三原市街に入る、気温は27度の表示が出ている。 午後になり日が翳ってきたより歩きやすくなった。
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東町1丁目の旧道は拡幅されて新しくなっているが街道左側にどっしりとした蔵造りの酔心本店の建物が目に入る。本陣跡は酒屋さんになっている、 標示は何もない。和久原川を渡って14時,三原城東大手門跡に到着、広島大学付属小中学校の東南角の碑が立っている。 少し進んで三原城に来たところで、少し時間をとって三原城の遺跡を訪ねることにした。 国史跡、小早川氏城跡三原城は、瀬戸内海の水運を掌握していた小早川隆景が永禄10年(1567年)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島、小島をつないで、 天正10年(1582年)前後と慶長元年(1596年)のころ偉容を整えた、小早川氏の後、福島、浅野氏の支城となり明治維新を迎えたと説明板に記されている。 城内を鉄道が貫通しており駅構内から天守台跡に上れるようになっている。 少し離れた場所にある船入櫓跡は石垣と濠が残っている。船入櫓跡の前に聖トマス小崎の像がある、豊臣秀吉の弾圧で長崎で処刑され たキリシタン殉教者26名の内の14歳のトマス小崎の像で、長崎へ護送される途中、三原城で母にあてた別れの手紙を書いた。 処刑後父の襟元から発見された手紙の訳はローマで保管され日本の26聖人として人々からあがめられていると言う。 三原城の周りで1時間を費やし15時、今日の目的地である本郷を目指して出発する。 三原城西惣門跡、西之宮一里塚跡の碑が道路を挟んで左右に立っている。宮浦橋の手前を右折し突き当たり神社の前を左折して新幹線、 JRの下をくぐり、宮浦中学校を巻くように緩やかな坂を上ると正面の県立広島保険福祉大学の下、小さな峠に国境碑が立っている。 「従東、備後國 従西、安芸國」となっている、ここから安芸の国に入る。
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時間は3時40分、秋の日はつるべ落としと言う先を急ぐ、坂を下って沼田川へ出て国道2号に合流する、少し行って国道から右に入り バイパスをくぐって耕地整理がされた道の左に、木之浜一里塚跡がある。4時03分再び国道に出て西に急ぐ七宝橋を通過して国道を左に 見送り田圃の中の道に入る、稲が黄金色に輝いて刈入れをしているところもある。長谷の集落を通り国道と合流、4時54分納所橋を通過し 本郷はもう直ぐ。国道から右に入り東本通を行く、5時過ぎに本郷の市街に入る。 5時20分西念寺を右に見る今日泊まるホテルが見えてくる。一安心、少し通過して本郷宿の御茶屋本陣跡を見る、藩主の別荘を参勤交代の 大名や幕府役人の宿にあてた本陣だったと言う現在は一般の民家になっているが大きい家である。5時30分、 本日の宿である本郷グランドホテルに着いた。 秋の日は短く関東と比べると20分ほどは日暮れが遅いと思うが、もう薄暗くなりかけていた。
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平成24年9月24日 (月曜日) 広島地方今日も晴れ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西条から西広島 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昔の旅人は夜明けと共に出発した、余裕を持って歩けるし目的地まで早く到着できる、先へ進むこともできるし、ゆっくりすることも出来る。 お江戸日本橋だって七つ発ちをしたのだ、季節によって違いはあっても午前4時である。 今朝も6時にホテルを出る、朝は雲が多いが晴れてきそうだ、 横浜方面は昨日は大変な雨だったらしい。 朝の四日市宿の通りはまだ歩く人もほとんどいない、駅前の通りから酒蔵通りを西に向かう、昨日は寄らなかった山陽鶴と加茂輝酒造のまえを通る。 赤い瓦が印象的、この地域で生産されている西条瓦は盆地のため寒暖の差が激しく瓦内部に水分を吸収しないよう工夫された寒さに強い瓦だそうだ。 国道に出ると急に車が多い、今日は月曜日で仕事が始まっているのだ、6時32分に国道の友待橋信号を左に入り直ぐに時友の一里塚跡を過ぎる。 この時間になると犬と散歩をしている人と出会う。日はまだ差してこず朝の涼しい空気の中を行く、と思う間もなく民家を離れ林の中の急な登りにかかる、 飢坂(かつえさか)である。上ったところ池の手前にに説明板が立っている、「飢坂由来、この峠の西側(八本松側)を飢坂と言い、 江戸時代飢饉の時にここで多くの人が飢えて力尽きなくなったことからこの地名になったと伝えています。東側では炊き出しをして人々を救ったと 伝えられている」やや下り池の間を行きまた登ったところにライオンズクラブによる峠の石碑が立っている。 15分ほどで通り抜け峠を下ってシャープの工場に出る。シャープも今は大変な時期を向かえているようだが、ほんの少し前までは液晶で先陣を切っていたと 思っていたがどうなってしまったのだろうか・・・・・ 7時15分、八本松中学校の横を通るもうグランドいっぱいに部活の朝練が始まっている、緑のジャージ短パンの中学生が元気な声を出して躍動している。 7時23分、JR八本松の駅に着く、通勤、通学の人で込み合っている、電車が着くが広島方面は混雑が激しいようだ、どこも同じだなと思う。 八本松の駅は山陽本線の駅で最高所の駅だと記憶している、昔は特に広島側、瀬野から登ってくる列車は途中の信号所で機関車を連結して 登っていたようなことを何かの小説で読んだように思う。
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八本松駅の北に出て直ぐ沓掛第3踏切で山陽本線を渡って石段を登り国道2号線に出る、ショッピングセンターの駐車場の国道に接するところに、 長尾の一里塚跡がある。 さてこれから今日の難所の大山峠を控えサンクスで小休止する。 7時40分に峠に向かって出発する少しの間住宅の間を抜けて行くがバイパスの下をくぐると山の登りにかかる。東広島市のライオンズクラブや 郷土史研究会による案内板が西国街道の方向を標示しているのに従って左折する。いきなりの登りである、しばらく舗装されているが直ぐに 山道になる、ご多分にもれず蜘蛛の巣を払いながらの登りとなる。上の方へ行くと道も荒れている、大山駅跡の木札を過ぎ道が二股に分かれている ところがある、大山峠の方向を示す木札があるのでそれに従って右へ行く。8時7分大山峠に着く、説明板と旧山陽道大山峠の碑が立っている。 日本書紀のことから書かれているが、明治17年(1884年)国道2号が新設されるまで国の幹線道路としての役割を果たした。 九州へ派遣される防人、京へ元寇の急変を知らせる早馬、明治維新の志士達もこの峠を通っている、西から峠に上がって来る坂を「代官おろし」 と呼びいかなる権威のある人でもかごから降りたという難所であったことを意味する・・・・・・のようなことが説明されている。 下りにかかるが土が流されて溝のようになっている箇所もある、峠を下っていくと直ぐ下に大山清水、少し下ったところに伝大山刀鍛冶の墓の説明、 旧山陽道加茂・安芸の郡境碑等があり集落に出る手前に代官おろしの碑と大山峠入口(旧山陽道)瀬野馬子唄発生の地の説明板が立っている。 道が荒れ、草が伸び、蜘蛛の巣も張っていたけれど昨日の瓦坂峠ほどではなく道ははっきりとしていた。 8時24分、集落に出る、山道を歩いている時はいつもそうだが、民家が見えてくるとホッとする。 道端でズボンの汚れを払い、靴に入った小石を除く、足元を整えて再出発。集落の坂道を下ってJRをくぐり国道2号に合流した。
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八本松から下ってきた車が勢いよく走り過ぎる国道から直ぐ左に里道に入る、もう広島市安芸区に入った少し歩いて国道を横切る場所に 万葉歌碑が立っている、 「真木葉乃 之奈布勢野山 之努波受而 吾超去者 木葉知家武」 小田事主 「真木の葉の しなふせの山しのばずて わがこえゆけばこのはしりけむ」 難所大山峠を越える情景を読んだ歌であると言う。 国道を渡って集落の道に入る、右上に山陽本線、左に瀬野川、その向こうに国道、旧道に沿って民家そんな道を歩いていくと、 街道の三本松が残っている(但し、2代目)8時58分椋木の一里塚跡を通過する。左手瀬野川の向こうを通る国道の自動車の音は遠いこだまのように聞こえる。 意外と通過する電車が多い、それだけけ長く歩いているということだろうか、上り方面は糸崎行き、下り方面は岩国行きが多いようだ。 踏切を渡って線路の右に出たりまた線路を渡ったりして9時半に間の宿一貫田を過ぎる、上瀬野郵便局の向かいに道標がある、 右海田市、広島 左熊野跡、呉となっている、交差点を直進する、9時58分、落合の一里塚跡を通過し10時JR瀬野駅に着く。 ここで小休止する。
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10時11分、小休止を終わり出発、瀬野の町を抜け安芸山陽道の案内標示に沿って中野に入る、少し上り道が続く民家の続くところは小高くなっていて、 JR、国道、瀬野川は左下になる。10時40分広島国際大学の下を通過する道は下りになり中野東駅を過ぎる、旧い家並みが続く、11時11分、 鳥上の一里塚跡の碑が民家の入口に立っている、安芸中野駅を過ぎたところで瀬野川を渡った国道の向こうに食事が出来る店が見えたので寄って 昼食休憩にする。6時に出発してから5時間半たっている少し早いがこの先食事場所があるかどうかも分からないので11時35分から食事にした。 中華の司馬である。 冷水を立て続けに飲む、気持ちがいい、余り行儀のいいことではないが食事の間靴を脱がせてもらう、 足も開放されて疲れが取れるようだ。12時10分まで自分としてはめずらしく長い休憩を取った。 国道と瀬野川を渡り旧道に戻った。すぐに出迎えの松がかなり旧い感じで残っている、藩士がここで殿様を迎えた場所であるらしい。 街道は海田市へ向かう。
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12時40分、海田市に入る、昔の面影を残す街並みが残っており、千葉家住宅は江戸時代を通じて天下送り、宿送り役をはじめ年寄、組頭などの 役職を努めた家柄で江戸時代中、後期の建築様式を今に伝え玄関は入母屋造り、座敷は数奇屋風書院造で寛政元年(1789)のたてもの略図 も残っていると言う。 12時56分、海田市の一里塚跡をすぎる、道は船越の町に入る船越郵便局の辺りから上りになる、狭い道で車も多く通るすれ違う時はどちらかが 片寄せて相手の通過するのを待っている。20分ほどで船越峠に着く、道が急に広くなるここから府中町に入る、広島市に食い込んだような かっこうになっている。広島はもうすぐ、時計は1時20分。
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船越峠から道を下り新幹線をくぐって八幡2丁目から浜田本町を通り天神川駅方向へ進む、府中大橋を1時47分に通過、芸備線のしたを くぐってその少し先を右に入っていく。手前に二葉の里歴史の散歩道の説明板があるのでそれを見てこの後の参考にする。 長尾の町を通り、長尾東2丁目の突き当たりで左に曲がる。少し行って長尾西に三本松のバス停がある、西国街道沿いに植えられた街道松の名残りで、 文禄2年(1593)豊臣秀吉が九州名護屋から大坂へ帰る途中広島に立ち寄ったさい、この道路の左右に並木松を植えさせた・・・・と説明が書かれている。 今は細い松が家の間にある、さらにその先に我羅我羅橋の説明と碑が立っている。名前の由来が説明板によると、がら竹という小竹を束にして作った 竹橋だったとか、橋を渡るときガラガラ音がしたためと言うことのようである。 真っ直ぐ進んで広島駅の構内を右に見てJRの踏切を渡る、猿猴橋を渡り広島駅前通りにでる。時刻は2時27分、京橋を渡って橋本町を左折広電銀山町の 電停を過ぎる、今日の宿泊先はこのあたりなのでホテルを確認する。そのまま仏壇通りから本通へ入る。広島の繁華街に入ってきた、 さすがに大都市である、平日だけれども多くの人が出ている。 さて本日は広島までの予定である、時間があるので原爆ドーム、平和公園を見学することにする。幸い旧山陽道は平和公園を横切っている。 本通商店街は若い人から年配者までいっぱいの人出、本通で左に曲がり、頼山陽旧居跡に寄った、日本外史著述宅跡の碑が門の前に立っており、 頼山陽史跡資料館になっている。本通に戻り平和公園に向かう。元安橋の手前に広島の道路原票が植え込みの中にうずもれるようにある, 案内板によればこの地は、主要街道が交差する広島城下の中心地で,当時この地に高札場があり近くには馬継場や藩の公式宿舎お客屋などがあった。 広島からの里程はすべてこの地点から起算されていると。 これまでの旅行の時は少し離れた場所から見ていた原爆ドームを傍まで行って見る、原爆慰霊碑は悪質ないたずらでペンキによる落書きがされていた というが、今朝までにきれいに落とされ元の姿を取り戻していた。 平和公園や原爆ドームをゆっくりと見て時間は4時前、まだ1時間くらいは歩けるので、この先西広島まで行くことにする。ここから西広島までは 一直線の道だ。 土橋の信号を渡ったところに明治44年創業の煎餅屋がある、天満橋を渡ると赤い鳥居の天満宮があり、前にここは旧山陽道と書かれた石標が立っている。 広島西郵便局の横を通って太田川放水路の己斐橋を渡ってJRの線路の手前を左折、4時25分JR西広島の駅に着く。 電車で広島に戻りホテルに入る。
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道は小瀬川沿いに進む、こちらは広島県(大竹市)、川の向こう側は山口県(岩国市)になる。 1時に両国橋に着く、橋の真ん中が 県境になっている。 橋を渡って岩国市に入る、左折して少し行ったところに松陰歌碑が立っている 「夢路にも かえらぬ関を打ち越えて いまをかぎりと 渡る小瀬川」 昭和44年5月28日 岸信介書となっている。 安政6年江戸へ護送される途中、この小瀬川でいよいよ故郷の国を離れる時に詠んだ歌である。 ここを右に曲がって小瀬の集落を抜けて小瀬峠の上りにかかる。 集落を過ぎて舗装された道を登って行くと、 道が大きく右にスイッチバックするところに、「歴史の道 旧山陽道」の木杭の標識が立っている。 ここを左に入ると、山道が延びている、少しの区間で舗装道路に合流。 午後になり少し雲が出てきた、1時45分頂上に着く、自動車も通る道だが車は殆ど通らない。 峠の頂上からは急な下りになる、森の中を関戸宿に向かって下りていく。 「旧山陽道」の標示が所々に立っている。 2時、関戸宿本陣跡に着く、説明板に隣あって吉田松陰先生東遊記念碑が並んでいる。 その先の関戸信号で国道2号に出る、ここを左へ行けば約2kで錦帯橋にでるが、何年か前に来たことがあるので今日は寄らない。 信号を右に行き山陽道の下をくぐる、日差しがまた強くなってきた、古市、多田の集落を過ぎて、本庄八幡宮の前を右にとり、国道2号から左に入り、 2時32分、錦川に架かる御庄橋を渡る。川の水は澄んで水底の小石まで透き通って見える、左手の山に岩国城の先端が小さく見えている、西側から見ている。 |
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2時40分、新幹線新岩国の駅が左に見えている、この辺りは中市、錦川鉄道をくぐり小学校の横を通って新幹線、錦川鉄道をくぐって 御庄川に沿った県道に出る。 左は川、右は田圃と民家がポツポツ、右手の田圃はもう山の陰になっている、今日の最終予定地、 玖珂13kの標示を見る。時刻は2時54分。 坦々とした道だが、歩道があるので歩きやすい。 また錦川鉄道をくぐる、左手にJR岩徳線の柱野駅が見えてくる、畑の集落を過ぎ JRをくぐって道が右にカーブその先で橋を渡って上市の集落を通過する。 古宿の集落に入ったところ右手に「岩国市指定有形民族文化財、千体仏」の小さなお堂がある、案内板があり、長い説明があるが、信者が法要、 仏事を営む際お堂の中の千体仏の中から亡き人の顔に似た仏様を選び位牌と共に仏壇に飾り読経をあげるというもの、 現在は795体が良好な保存状態で現存していると。 3時半になった、山間の集落に入ってきた、この先峠を越える、県道15号が右上を通っているが林で見えない車の音だけは聞こえる。 山間で太陽は山陰、民家もポツポツになる、一軒屋、二軒屋と集落、と言っても2〜3軒の集落を過ぎる。4時ちょうど、表に出ていたお爺さんに 欽明路峠までの距離を聞く、上り、下りで18丁と言う返事、あそこを越すんだよと指された先は山が立ちはだかっている。 約2k上りを考えても30分もあれば越せるだろう、道はしだいに登っていく、県道のみぎに出ると県道はトンネル、欽明路隋道に入って行く、 トンネル入口に1136mと標示されている。街道はトンネルの上へ続く、道が急坂になってくる、スリップ止めの溝が道路に刻まれている、きつい上りだ、 4時10分頂上に着く、ここが中峠、もう上りきったのか、先に欽明路峠があるが道は少し平らになった。 あとは下るばかりと思っていたが、峠の先でちょっと道を間違え10分ばかりロスをしてしまった。 |
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峠を越すと再び日差しに出会う、4時24分、山陽自動車道を越す、前方に今日の最終地、玖珂の町が見える。 道が大きくヘアピンに曲がって 「歴史の道 旧山陽道「万葉歌」」の案内板が立っている。 「周防なる 磐国山(いわくにやま)を越えむ日は 手向けよくせよ荒しその道」 この峠が周防国の道路の中で最も険しいところであることを 詠ったものと思われる・・・これは岩国市教育委員会による説明。 4時37分、欽明寺を通過、今日の最終地JR玖珂駅を目指して歩く、気持ちはせいている。 欽明路駅に着く手前で、乗車予定していた列車が通過していく、思っていたより40分程遅れている。 時刻は4時43分、夕暮れが近づいている、岩徳線を渡り野口上の集落を歩く、市頭に出る手前に、「義民、田坂市良右衛門」の大きな石碑が立っている。 田坂市良右衛門は代々町方、大年寄りを世襲する家に生まれたが、安政年間代官の悪政を改めるよう進言して、幽閉されたが屈せず、 村民有志の訴えにより最後は無罪となって積年の弊害も取り除かれたと言うことだ。 市頭の角を右折して本町通りは本郷市の街並みが続く、玖珂駅前通りを右折してJR玖珂駅に5時09分に到着した。 今日は徳山に泊まることになっている、列車は5時45分、駅の向こうには鞍掛山古戦場跡もあるが日暮れも近いので駅で時間をつぶす、 徳山には6時37分に着いた。 |
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平成24年10月14日 (日曜日) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
玖珂から新南陽(徳山) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩徳線始発5時48分に乗る、次の列車は7時10分、まだ暗いそれでも何人か乗ってくる人がいる、6時を過ぎて生野屋駅に着くころにようやく 薄明るくなってきた。 周防久保駅に着いてやっと夜が明けて回りの様子が見えてきた。 昨日もこの線に乗って徳山へ向かったのだが、夜で周りが暗く沿線の様子はさっぱり分からなかったが国道とほぼ並行しているようだ。 途中17分停車の駅があったりして玖珂駅に6時55分に着く。 東の雲の間から日が出てきた。 靴の紐を締めなおして直ぐに出発する、今日は徳山まで31kほどあるか? 日曜の朝の玖珂の街並みを右に萬久寺、菅原神社を過ぎていくと、右やや後ろに鞍掛山が見えている。 大内義孝時代の武将、杉隆泰の居城の跡で、弘冶元年(1555)毛利軍に攻められ落城した。 街並みを抜けると国道2号、JR岩徳線が右手に近づいてくる、道路は県道144号(光ー玖珂線)となり改修された広い通りになる。 7時半、東川橋を渡り周東町に入る、高森の宿場である。 右手に受光寺がある、鞍掛合戦で毛利元就に敗れ落ち延びた家老の子が出家し 菩提を弔ったのが始まりと言う。受光寺の先に見事ななまこ壁の塀がある、以前は醸造場だったという、その先に高森本陣跡がある。 本陣は相川家が勤めていたという、古い門と塀が残り「旧山陽道 高森本陣跡」の標識が立っている 通り左手に、「吉田松陰常泊の地」の黒御影石の新しい碑が立っている。醤油の醸造販売を営んでいた、親戚の岩本家で上京のさい 数回逗留したと。少しいくと、右駐車場の奥に「宇野千代文学碑」が立っている。 「その高森の廣い往還を思い出すたび、なぜあの山奥にふいにあんな美しい町並みがあったのか、不思議に思ふ」 著書、「ある一人の女の話」の一節岩国市川西出身の宇野千代は早くに母をなくし、父の実家のあった高森で幼少期を過ごし、 実家は酒屋で裕福だったという。 |
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道は島田川に当たって右折する、その角に高森天満宮がある、菅原道真が大宰府に左遷される途中、当地の島田川に岸辺にこんこんと湧き出る泉で 喉を潤したという伝説があり、周防の三大天神の一つに数えられていると説明されている。 ここの境内にも宇野千代の碑があり、少女時代よく訪れたという。 島田川の堤防上の道を歩く、桜並木になっており花の季節には、きっときれいな散歩道になることだろう。 日曜日で散歩している人も多い、時刻は8時を過ぎたところ。 右にJR、左は島田川、8時半になって後ろから日が差してくる、米川駅を通過しその先で歩いてきた県道は川に沿って右へカーブしていく。 街道は直進して細い道に入る、ここにも県道142号の表示がある。 丸子坂、中山峠の上りにかかる、旧宗泉寺跡を過ぎ、旧道は左に入るが、歩けないところもあるらしいので、そのまま県道を行く。 旧道の面影は十分、林の中を上っていく。 峠の少し手前に「中山峠御駕籠立場跡」を過ぎる。藩政時代藩主や西国大名が参勤や国内巡視の際駕籠を止めて休憩された場所という 米川公民館による由来がかかれている。 9時10分、中山峠に着く、岩国市と周南市の境界になっていて、峠には「従是東 玖珂郡 従是西 熊毛郡」と刻んだ郡境碑が立っている。 道は下りになる、クマに注意と書かれた看板が何本か立っている、のどかな道を下って里に出ると2歳くらいの幼児が三輪車で母親と遊んでいて どこからか木犀が匂っている平和な風景である。 岩徳線の踏切を渡る、真っ直ぐに延びた線路の向こうに中山トンネルが見える。 |
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9時33分、正覚寺の前を左に曲がって今市宿に入る、正覚寺は一時今市宿の脇本陣だったらしい。 JRを跨線橋で渡り、9時42分、高水駅を通過、呼坂宿に入る。 宿を進むと左手に「呼坂本陣跡」がみえてくる。 周南市指定文化財、呼坂本陣跡の説明板が立っている。 呼坂本陣の河内家は代々庄屋を勤め、天明年間(1781)七左衛門が本陣を引き受けた・・・・・・・ 本陣から少し進んだ街道右手に「吉田松陰、寺島忠三郎決別の地」の碑と歌碑が立っている。 安政6年(1859)江戸へ護送される吉田松陰がこの呼坂を通過した時、寺島忠三郎が師、松陰と無言の別れを告げた場所である。 「かりそめの 今日の別れは幸なりき ものをも言ハば 思いましなん」 松陰 「よそいに見て 別れゆくだに 悲しさを 言にも出でば 思いみだれん」 忠三郎 寺島忠三郎は16歳で松下村塾に入って吉田松陰の弟子となり、禁門の変で久坂元玄瑞とともに22歳で自刃した。 右手に寺島忠三郎生誕の地もある。 日差しが強くなってきた、JR、R2を渡ったり、渡り返したりして10時15分、勝間駅を通過その先で国道2号に合流、国道はJR岩徳線とほぼ沿っている。 道が少しづつ上りになり山陽自動車道をくぐって大河内駅を通過、国道を上り詰めたところが峠市(たおいち)左側に郡境碑が立っている、 「東 周防之國熊毛郡 西 周防之國都濃郡」と記されている。 新しいものに見えたので裏面を見ると、明治19年2月建設と書かれていた。 |
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郡境碑の先から国道は拡幅されて高速道路のように右に分かれていく、11時02分に周防久保駅を過ぎる 道は県道140号になっている、切山の信号を左へ久保市に入ると静かな通りとなる。 塩売峠(しおりがたお)という小さな峠道を過ぎ、 山田の信号で国道を渡る。 しばらく岩徳線に沿って歩く、生野屋駅を過ぎたときは11時55分になっている。 どこかで昼をと思いながら歩くが適当な店がない。 花岡宿に入る、「花岡ふるさと花だん」という季節の花に彩られた小さな公園があり、 奥のほうに「花岡勘場跡碑」と書かれた碑と説明板がある。 萩藩代官の役所だったそうで、本陣も隣接していたらしく、 このあたりが花岡宿の中心だった。 12時16分、法勝寺に着く、境内に狐の嫁入り行列で有名な花岡福徳稲荷大明神がある。 その先花岡八幡宮の門前に「金分銅醸造元」の見事な看板の酒屋さんがある。 時計は12時20分になっている、 食事場所がないまま進むと少し広い道と交差するところにコンビニがあったので、弁当を買う、その先で田圃の畦に腰をおろして弁当を食べる。 考えて見ると、朝出発してから腰をおろして休んでいない、ホッとする。 10分ほどで立ち上がり、12時40分に出発する。 新幹線の下をくぐって末武川沿いの道を行く、雲がでてきたようだ、少しアヤシイ雲に見える。 国道のバイパスをくぐって岩徳線の手前、 和田橋を渡る、右上方向に新幹線を見ながら順正寺の先を左折、三叉路の先に右角から「山縣本店」の歴史を感じさせる建物が続く。 防長鶴の醸造元である。 新幹線の北側に出て徳山の市街に入ってきた、左手海側には徳山の工場が続いている。 |
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遠石宿に入り、1時40分、遠石八幡宮に着いた。京都岩清水八幡宮の別宮として勧請したといわれ、江戸時代には毛利徳山歴代藩主の崇敬も篤く、 祭礼には多くの参詣者で門前も賑わったという。 改修して新しくきれいになっており、七五三のお参りをしている家族連れもいる。 境内からはコンビナートの工場群が一望できる。 神社を下りて八幡宮の門前町として栄えた遠石の町並みを行く、右手に遠石の名前の由来になった 「影向石」と呼ばれる大きな石がある。 案内板によると推古天皇30年(622)春の夜、宇佐八幡大神が新馬にまたがり、 降り立った時の神馬の蹄跡を残す岩として祀られている. 狭い道筋の念仏坂を通り国道2号に出る、松保町で国道から左に道を取って進む。 速玉郵便局の先、右に孝女阿米の碑があり、 年老いた父親を背負う阿米の銅像がたっている。 12歳の時病に罹った身体の弱い父親を31年間看病し続けた娘の孝養を顕彰して立てられたもの。 商店街に入る歩道にはアーケードが架かっている、ここにも銀座がある、地方デパートなどもある繁華街を通り、2時20分、徳山駅前に着く、 今日の予定はここまでだがまだ時間は早いので、もう少し先まで行くことにする。 駅を過ぎると人通りは少なくなる、浦山交差点で新幹線に突き当たり左へ進む。 川崎の街を進み、富田川の音羽橋を渡る。 橋から川を見ると鯉がたくさん泳いでいる、水が透き通っている。 3時16分、新南陽駅に通じる道に出る、時間的にはまだ先へ行けると思うが、地図の用意がないので今日はここでおわりにする。 駅まで歩き3時50分の電車で徳山へ戻りホテルに入る。 今日は時間がありゆっくり休めそう。よく歩いた。 |
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平成24年10月15日 (月曜日) 晴れ |
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新南陽から新山口(小郡) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6時31分の電車で新南陽へ、6時40分駅に着く。 駅を出るとちょうど東の山の端に太陽が昇る、6時47分、昨日の終了地点 、政所郵便局の前から歩き始める。 政所の町を過ぎ、山崎八幡宮の前に来ると古い道標が立っており「左 上かたみち 右 下のせきみち」 となっている。 八幡宮のに当たって左折、富田宿の街並みとなる。 国道2号にでて右手に南陽工業高校を過ぎる、学生服姿の集団とすれ違う、 7時17分、国道から右に旧道に入る。 勘場蔵跡を過ぎ福川宿の街を行く、駅に通じるとおりをすぎ、枡形を右に曲がると、その先に松田本店の 建物が目につく、清酒「男自慢」の醸造元である。 そこを左に進み小さい橋を渡ると町名も本陣町。 福川本陣跡に着く、塀に囲まれた本陣門が残っており、表札も架かっている、 奥に住居があり、現在もお住まいのようだ。 説明板によると、福川の本陣、脇本陣は御茶屋と称して代々福田家がこれを預かっていた。 享保6年(1721)幕府の参勤交代における随行員制限令が発せられた頃から、山陽道においてもそれまでの海路から、陸路による通行が激増したと。 現在は天保9年(1838)再建された本陣門だけが残っている。 |
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宿を抜けて夜市川(やじがわ)の堤防を歩く、背中に日差しを受けて自分の影を追って行く、前方に山陽自動車道が見えて気持ちのいい道だ時刻は 7時半を過ぎたところ、朝でまだ気温が上がっていないが、時間がたてば暑くなりそうだ。 20分近くこの道を歩き、山陽自動車道をくぐった少し先を右折、JRの踏み切りを渡り、国道2号は地下道でくぐる。 夜市小学校を回りこんで真っ直ぐに延びた鬼石の集落を歩き、市の集落を目指す。 8時20分、市の集落に入り、赤坂峠の上りにかかる、短い上りだが坂はきつい、坂を上りきったところに、西徳山総合グランドがあった。 峠を下って戸田の集落を進むと、三叉路の角に「宮島様」と呼ばれる鯛をかかえた恵比寿様が祀られている。 どうして宮島様と呼ばれているか、定かでないとしつつも、水の中に柱を立てて祀られているからと推測している。 戸田の集落を西に出る所に「辻地蔵」が祭られている。 享保年間にここに祀られ、天明5年(1785)身体から大量の汗を出して、火災の難を 知らせたと言う。 |
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戸田を過ぎて国道2号に出る、椿峠に向かって上っていくが、舗装も新しく片側2車線の広い道路、車も気分よく飛ばしている、 歩道も1車線分くらいはある。 山陽自動車道をくぐったところで、国道を左に分けて旧道に入る。 向こうに国道、間には田圃、 赤くなった柿の実がなっている。 峠を上っていくと国道は改修中で、下の方は出来立てというところ、きれいなわけだ。 9時10分、椿峠頂上に到着、天野屋利兵衛というドライブインがある。 天野屋利兵衛は男でござる! 赤穂浪士討ち入りを支援した商人、なんの関係があるのか? 峠の左手、道から高いところに「郡境碑」が立っている、「従東 都濃郡 従西 佐波郡」と刻まれている。 ここで、周南市から防府市に入る、峠のくだりにかかると前方に海が見えてくる、大型のトラックが間断なく過ぎていく。 峠から200mほどで左に旧道がある。 旧道に入るとのんびりとした歩きが楽しめる、地蔵堂を過ぎ右に円通寺を過ぎる、 円通寺は徳山藩の陣屋となった寺である。 富海信号で国道2号を渡って富海宿に入る。 9時48分、富海本陣跡に着く。 説明板には、江戸時代山陽道沿いの富海本陣は宮市から福川本陣への途中の半宿であり (宮市から2里、福川へ2里半)大名行列の休憩、長崎奉行やオランダ人(出島居留)、日田御用金運送などの比較的小規模な 人数の宿泊に利用された。 福山藩に直属し町年寄が支配していた。 元禄16年10月、長崎奉行宿泊、 弘化3年7月、島津斉彬下向の際休憩、 嘉永6年9月、天障院篤姫江戸に向かう際休憩、などの記録が残っていると。 日差しが強い、すぐ左は海、富海駅前を9時54分に通過する。 |
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10時、橘坂の上り口に着く、旧山陽道入口、旧市街⇔橘坂と書かれた木板の道しるべが道路左のコンクリート壁にあって、それの示す方に上っていく。 上りは急坂、左に海を見ながら急な坂を上ると、手懸岩がありそこに富海史談会による手懸岩と橘坂の説明板が立てられている。 山陽道の旅人たちは、この辺りに来ると眼下に見える瀬戸内海の絶景にしばし足をとどめ、この岩に手を懸けて休んだと言う。 それでこの岩は手懸岩と言い伝えられている。 富海側へ下る坂を橘坂といい、応安4年(1371)九州探題、今川貞世が「道ゆきぶり」 に次の歌を書き残している。 「あら磯の道よりもなお足曳の 山たち花のさかぞくるしき」 また、尾張の菱屋平七が「筑紫紀行」にこのあたりの風景を、東海道の薩った峠によく似たりと書いている。 下を見ると、なるほど山が海に迫ったところを鉄道と道路が走り、さった峠から由比方面を見た景色にそっくりだ。 山の上は平な道になり、林の中をマイナスイオンを浴びながら歩く。「茶臼山古戦場」の案内板が立っている、毛利軍と大内輝弘の戦いで、 右手に小さい石の祠があり、自刃した大内輝弘の墓と伝えられている。 さらに、短い石畳道や、旧山陽道の標柱、山陽道修復記念碑、浮野峠改修記念碑を通過する。 浮野峠の標識を過ぎて、竹林を通り、下っていくと、 国道に接してすぐ離れる。 「浮野駕籠立場跡」の案内板を過ぎて、浮野の集落に入る。 左手の浮野公民館の前に、江戸時代の浮野についての説明が街道の 図入りで掲示されている。 「浮野半宿」として、人夫8人、馬10匹を用意していたと。 11時27分、岸津で国道2号に合流し、11時34分、周防国衙跡に到着する。 |
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信号を右に行くと、左に国庁八幡宮跡の説明板、その奥に周防国衙跡の碑や解説板がある。 木陰でベンチもあったので小休止とし、 汗をぬぐい、水を飲み、塩飴を口に入れる昼も近いが、防府には見るところがたくさんある。 国衙は大和朝廷が国ごとに設置して、国司を派遣し政務を行った役所である。 文治2年(1186)周防国が東大寺造営領国となって以降、 東大寺から派遣された僧によって国務が行はれていた。 広い史跡公園になっていて、1937年国の史跡指定をうけている。 解説を読んだり、写真を撮ったりしながら20分ほど休憩をとった。 足の疲れも取れたところで、腰をあげて進む、国衙跡から北に行き多々良で左折する、この奥には多々良大仏堂がある。その先で寄道をし、 毛利氏庭園に立ち寄る。 明治25年、井上馨が旧長州藩主毛利氏の本拠にふさわしい処として現地域を選定、日清、日露の戦役などで遅延したが、 大正5年に完成した。25,000坪の広大な日本庭園で、ひときわ目立つ1,200坪の豪邸は、公爵毛利氏本邸で内部は毛利博物館として公開されている。 戦国の名将毛利元就以来の栄誉を伝える歴史資料が公開されている。 庭園に入ると、色づきかけたもみじもあり、自然美を配した回遊式日本庭園で、遠足の幼稚園児が元気に走っていた。 街道に戻ると、右手、周防総社の佐波神社がありその鳥居の横に、野崎小唄などの作曲で知られる、大村能章の顕彰碑がある。 続いて、右手土塀に囲まれて周防国分寺がある、現国分寺は高野山真言宗別格大本山になっている。 創建当時とほぼ同位置に寺が残っているのは 全国的にも稀で、国の史跡に指定されている。 西に向かって、宮市の宿に入ると宿の中心である防府八幡宮の鳥居が右手に現れた。時刻は12時40分になっている。 |
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防府八幡宮は松ヶ崎の地名から、松崎天満宮と呼ばれていたが、昭和28年に、防府八幡宮と改称された。 大宰府天満宮、北野天満宮、 と併せて日本三天神と言われている。 本殿にお参りし境内見学したあと、食堂で昼食休憩にする、ちゃんとした昼食を食べるのは今回今日がはじめて。 椅子に腰掛けて靴紐を緩める、昼時を少し過ぎているのですいている。 店の仲居さんと話していて、これから小郡まで歩くというと、 大丈夫ですかと心配された。 1時15分、小郡に向けて出発する。 八幡宮を出ると萩往還がここで山陽道に合流する、萩往還は三田尻屋敷を出発点として萩城下まで通じている。 直ぐに宮市宿の本陣跡、兄部家(こうべけ)がある。 午後の日差しを正面から受けて西に向かって今市町を進む。 1時48分、佐波川にでる、 10分ほど河川敷の道を歩き2時、大崎橋を渡る、山陽自動車道をくぐり左折すると、周防一宮の玉祖神社(たまのおや)が右手にある。 三種の神器の一つ勾玉を造られた、玉祖命(たまのおやのみこと)を祀っている。 この先街道をすすんで佐野峠にかかる所で道を間違ってしまった。 街道歩きの旅によると道は山陽自動車道に沿って、 佐波川SAの外周を回るようになっていたので、その通りに行くといつまでたっても峠に着かない。 そのうち、旧山陽道の標示が出ているではないか、 西側の入口だ、ずっと手前の池のところを右に行くべきだったのだ、引き返す気力もなくそのまま進む。 岩淵集落を通って市の集落を過ぎる。 3時22分、国道に合流し左に右に旧道を拾いつつ行くと、右手に長沢池が拡がってくる。 3時42分、山口市に入る、国道から左に旧道に入り山陽本線の木場踏切を渡り、しばらく歩いてまた踏切を渡って国道に出る。 長沢池の西の端、人工の池ということだが本当に大きい池だ、ここを真っ直ぐ行くと、大村益次郎の墓もあるようだが寄る時間がない。 西へ進み、今宿東の信号で右へ行く国道と分かれて左へ四辻駅方向へ行く。 |
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4時04分、四辻駅前を通過、春日神社の鳥居の前、道路右手に建石とその解説板が立っている。 平らないしで、いつごろ、誰が、何のために建てたのか分からない、石には刻まれた文字はなく、この石がここにあることによって、 立石の地名が名づけられ、山陽道を行き交う人の道標に役立っていたものと思われる、と書かれている。 国道を渡って陶に入ると道路左手に陶上市の市恵比寿の赤い祠がある、説明板には「昔は市えびすと言って市の立つ所にはえびす様を祀る 風習があった」 さらに進んで、百谷川の橋本橋を渡った右手に下市の市恵比寿が祀ってある。 艫綱の森の説明板を過ぎる、時刻は4時42分、 新山口までまだ4kはあるのだろうか? 西陶に入り国道を少し歩き、右に旧道をとる。時計は5時を過ぎた、新幹線ををくぐって先右手に一里塚が立っている、どこ以来だろうか 久しぶりに出会う一里塚だ。 「従安芸 小瀬川22里 従赤間関 14里」 下関まで14里に迫った。 東津橋を渡った、左手に「藩米津出蔵跡」(はんまいつだしくら)の説明板が立っている。 藩の年貢米をここに保管して船で、大坂へ運ばれたとのこと、御蔵に並んで川口番所もあったと言う。 日も影ってきた、少し気持ちもせいている、河原には山頭火の歌碑もあるというが、寄らずに先へ行く、正福寺を過ぎJR山口線の踏切を渡る、 少し先に道標がありここを左折して南下する。 萩、石見方面への分岐点で道標には 「右 京江戸 左 萩 石見」と刻まれている。 5時18分、日は落ちた、急に薄暗く感じる、5時半新山口駅に到着。 |
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平成24年10月16日 (火曜日) 秋晴れ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新山口から小月 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新山口駅を7時に出発、以前は小郡と言ったが今は新山口と名前が変わっている。 続いていた晴天も今日までという、明日は雨の予報、今日中に行けるだけ歩こうと思う。 幸い秋晴れになった、わずかばかりを残して又、次回というのも費用の面からいっても無駄になるし、明日は雨でも赤間関に着きたいと考えている。 昨日の続きを歩き始める、県道335号の小郡赤坂の信号を渡り山陽本線、宇部線の踏切を渡り右へカーブして、上嘉川の集落に入る。 一里塚のあった辺りには、なにも標示はない、小中学生の登校時間、子供達は礼儀正しい。 再び線路を越して嘉川中市交差点に出た時は7時50分。 幸の橋信号で又県道を渡り返し、上高根の集落を進む。 太陽が後ろから差している、右手を新幹線が走り抜けていく。 国道2号に合流する、山口宇部自動車道のインターチェンジになっていて分かりにくく、歩きにくい。 8時32分、国道の側道に入り、 割小松峠への上りにかかる、下関51kの標示がでている。 道はしだいに上っていく、上りはじめて15分峠の頂上に着く。 国境碑が国道の右に立っている「東、周防國 西、長門國」と刻まれている、割小松峠で山口市から宇部市に入る。 割小松の集落の間、短いが旧道が残っている、その先で国道に合流、歩道があるので車両の通行は多いが安心、ところが、 片側の歩道が急に反対側になることがあり、あわてることがある。 宇部市山中で右に上市の集落に入る、熊野神社があり鳥居の横にツルマンリョウの(指定天然記念物)の自生地の説明板がある。 山中上市の西の端に「三界地蔵」があり、ここを右折して川沿いの道を歩き国道2号に出る。 山間の道である、20分ほどで山中下市に入る、 道路の右側に「山中本陣跡」白い標柱が立っている。 大きく左へカーブして国道は山中を抜ける、一時フッと車両の通行が途絶える時がある、ほんの少しの間、静寂が訪れる、すぐにまた車の 騒音が戻ってくる。 |
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9時40分、車地の交差点に着くと、右方向、秋芳台の標示が出ている。 旧道に入り木田橋を渡る手前に「男山」酒造の醸造元がある。 橋を渡って左折しばらく歩くと、右手に丸山ダム堰堤が見えてくる、瓜生野の集落に入っている、少し先に「殿様道(山陽道往還跡)」の標柱が立っている。 藩政時代の山陽道は、この玉木坂という峠道を越えて、吉見に通じており、地元では殿様道とよんでいた。と書いててある。 木杭に沿って右に入り小さい神社の前、先ほどのダムへの道の角にも同じ木の標柱が立っている。 どんだけ道と呼ばれている山道である。 草も伸びているが、道ははっきりしていて迷うことはない、山道を15分ほどで通り抜け、10時20分里に出る。 出たところに「道路史跡山陽道跡」の標柱が立っている、また、どんだけ道の入口を示す絵看板がある。畦道のような道を通って正覚寺で国道2号に出る。 後方左がJR厚東駅になる、時刻は10時半、国道を行き下岡の信号を過ぎて、新幹線の下から大きく左に入り、三角形の二辺を歩くように、 また国道に出て新幹線をくぐる。 その先でちょっと山道に迷い込み足をとられたりして時間をロスしてしまった。 (街道歩きの旅)では国道から歩左へ行くようになっているが違っているようだ。国道に戻って横切り農道のような道を少し歩きまた国道に合流する。 大型車が通過するので歩道がないとちょっと危険を感じる、立ち止まって車の通過を待つ。 吉見峠へ上って行く、標高90m、ちょっと意外だ。 峠を過ぎると道は下りになり、工業団地の先で左へ入って行く、宇部興産専用道路をくぐったところに「山陽道一里塚跡」の標柱が立っている、 赤間関へ9里である。 写真をと思ってカメラを構えるがオンにならない、パワーを入れるが何かおかしい、どうしたのかと思ってよく見ると バッテリーカバーが開いているではないか、中を見るとバッテリーがなくなっている。 落としてしまったのだ、足をとられた時にはずみでカバーが開きバッテリーが落ちたのだろうか? あれから大分歩いている、戻ることも出来ない、この後、カメラで記録できないことになってしまった。 |
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時計は12時前、あきらめて歩き出す、岡崎八幡宮を過ぎると、向かいに宇部市教育委員会による 「船木宰判御高札場跡」の標柱が立っている。 歩いていくと、「旅人荷付場跡」の標柱と,説明板が立っている。 江戸時代船木は本宿で、街道沿いに町屋が並び、 駅馬8頭と人足十数人が用意され、公儀役人、大名行列、旅人などの世話をしていたと。 カメラがあればいちいち書き写さなくてもいいのに・・・・・・ 茶屋信号で国道に出て、有帆川を渡りしばらく国道を行く、銭ケ原を過ぎ逢坂峠を目指して国道を歩く。 逢坂バス停の先で国道から右に行くと、「木造十一面観音菩薩立像」「千林尼の石畳道(一部)」「山陽街道(残存百米)」の立て札が立っている。 坂を上り始めて、直ぐ石畳道がある、上りきったところに逢坂観音堂がある、観音堂の先草の生えた山道を通って国道に下りる。 逢坂の信号で国道は左へバイパスへ入って行く、旧国道は右に分かれてしばらくいくと、西見峠に着く。 峠の先に道標がありそこを左へ下りて厚狭の町に入っていく。 鴨橋を渡り左折、橋の西詰めに道標が立っている,鉄道で分断された道を拾って 厚狭駅の南側に出る。 今日はここに泊まることになっているが、一旦通過する、時計は1時半。 駅の南を西に進み七日町に入ると、追分道標があり「右吉田道 左はぶ道」と明治10年の道標である。 ここは直進して吉田宿を目指す。 山野井神社を回りこみ、長友の集落を過ぎて山間の道を石炭(いしずみ)へ向かう、右に山陽本線が近づいてくる、 右下、山陽本線は石炭隧道に入って行く。 トンネルの上を越えて、福田に出る、蓮台寺坂への入口になる。 民家の間の細い道を入り、道なりに山道に入る、左は田圃の山際の道を行く。 この先、ぬかるむ道があると言うことだが、ここずっと晴天が続いたためか、 うわさほどでもなく過ぎる。 やがて草が伸び、藪状態になった道を掻き分けけ進むことになったが、いまさら迂回する道はない。 そのうち通り抜けて庚申塚のある場所へ出た、ここが蓮台寺峠らしい。 もう3時40分を過ぎている。 |
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(カメラなく写真なし)
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舗装道路を右に行く、街道を下っていくと広い道に出る、常関寺への分岐点で、ここを左へ行き、山陽自動車道をくぐり吉田へと下りて行く。 庚申塚を過ぎていくとT字路に当たる、吉田宿である。 高札場跡があり説明板が立っている。 左折していくと、長慶寺がある、 京で松永久秀に敗れた、三好長慶の子がここ吉田にたどり着き開祖になったという。 この先の交差点を左へ行くと高杉晋作の墓や、東行庵、高杉晋作に関する資料を収めた東行記念館がある。 交差点の左手前に一里塚跡がある、赤間関まで5里。 吉田大橋で県道に合流して橋を渡り木屋川沿いを南下する、肥田、吉田と過ぎて 地蔵堂を右に上がって少し行き又、県道に合流、新幹線をくぐって小月京泊4で右に入って行く。 小月小学校の前に「旧国道碑」が立っている、小月神社を過ぎて小月インターに通じる広い道を渡ると、八幡御旅所に大きい庚申塚がある。 日本一だそうで、刻まれた庚申の文字に米二斗が入るという。 左に曲がり少し先に道標「右 かみかた道 左 とよた道」が立っている。 そばの案内板に、小月が「山陽道の半宿場」だったこと、この付近は「旅籠の立場」であったことが書かれている。 ここを右に曲がると、「見廻り通り碑」の石碑が立っている、「下市から茶屋入口までの山陽道の一部で、下市は宿場街、茶屋町は歓楽街で 栄えたために武士が庶民の暮らしや治安を見て廻った」と説明されている。 小月茶屋1丁目に来たところで小月駅に向かった、時計は5時20分になっている。 それにしても、カメラのないのは残念だった、あすはどうしようか? |
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(翌17日、使捨てカメラで駅近くの再び歩いた時の写真、雨が降っている)
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平成24年10月17日 (水曜日) 雨本降り | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小月から下関(赤間関) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最終日となった、数日前からの予報で今日の雨は分かっていたが・・・・・・ 昨日まで天気が続いたことの方を喜ぶべきか・・・・・・・ 部屋の中から雨音が聞こえる、少々の雨でも今日は歩くと決めていた、それにしても本降り、残すところは20k弱。 厚狭から小月に向かい、7時36分小月の駅でポンチョを被り、傘を開いて下関に向けて出発した。 カメラの都合で昨日通過した、駅に近いところを再度歩き、キヨスクで買った使い捨てカメラに収める、 雨が降っているので写っているのか? 8時、本日の行程に入る、小月茶屋1丁目の角から清末鞍馬3丁目にくると右手角に「孝行塚」が立っている、右上方に 清末陣屋跡があるがこの天気ではどこにも寄るような気にならない。 小月の街中で少し小降りになったかなと思っていた雨が又強くなる、8時45分、神田橋を渡る。 渡ったところに、文化8年(1811)の年号を刻んだ石橋が保存されている。 9時、国道9号線を渡って王子上町に入る、靴の中まで雨が染み込んでくる、王子本町にかかると雨も絶好調! こうなるともう平気、手にした地図もグッショリ! 9時10分、宇部一里塚跡を通過する、赤間関へ3里と近づいてきた。 左に山陽本線、右に国道その間の道を雨にうたれながら歩く、才川第一踏切を渡り、国道のガードをくぐって長府の街に入っていく、9時40分、 長府駅に着く。新しく立て直された駅できれいな駅舎、少し休む。雨の中は疲れも普段よりは大きいようだ。 長門の国府が置かれたことから長府というようになった、ここは見所も多いがこの雨でどうか・・・・・・・ 気を取り直して出発、長府八幡町を行くと古い土塀が見られる、駅から20分ほど進んだ左手に「田上菊舎旧宅跡」がある。 加賀の千代女と並ぶ江戸期の代表的な女流俳人で 「山門を出すれば、日本ぞ茶摘唄」 寛政2年(1790)宇治万福寺を訪れた時に詠んだという、長府藩主11代、毛利元義公にその才知を愛され、恵まれた晩年をこの地で送り、 74歳の生涯を閉じたという。 この先で国道2号を渡り、長府金屋町に入ると、商店や、飲食店、みやげ物やなどが昔の雰囲気を残す造りに改築され、趣ある通りになっている。 少し先の「乃木さん通り」は歩道にアーケードが架かった商店街、右手奥に「乃木神社」がある。乃木大将が幼年期を過ごした旧邸もある。 すぐ先に長府國二ノ宮「忌宮神社」(いみのみや)がある。 仲哀天皇、神功皇后が西国(熊襲)平定の際に、豊浦の宮を置いて、 7年間滞在された地と言われている。 「仲哀天皇豊浦宮皇居跡」の碑がある。 このあたりは長門の国の国衙跡だったようだ。
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神社の一つ先を右に入ると、塗り壁の続く古江小路があり、一番奥まったところに「菅家長屋門」が残っている。 菅家は長府藩祖、毛利秀元により京都より招かれ、侍医兼侍講職を務めた。 古江小路は城下町の風情をよく残している。 入り口に戻り、一本先が街道であるが、少し南に長州藩侍屋敷長屋がある、街道戻ると、長府惣社町を右折する角に「長府毛利邸」がある。 明治36年、長府毛利家第14代、毛利元敏が東京から長府に帰住した際に建てた邸宅である。 邸宅の右手前に長府惣社跡がある。 ここを左に曲がって野久留米街道を登っていくのだが、左へ曲がったところ右手に「功山寺」がある。 毛利家の菩提寺で高杉晋作の挙兵の地でもある。 「高杉晋作決起の地」の碑が立っている。高杉晋作がわずか80名を率いて起こした 功山寺挙兵がやがて武士の時代を終わらす明治維新へと繋がっていく。 |
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雨は続いている、幾分小降りになったが最後の上り道だと思うと元気も出てくる。 道を上り詰めて下りにかかる 、雨で煙っているが前方に薄く見えているのは、関門橋のケーブルか? 判然としない、風がでてきた、雨雲を払う風だといいのだが・・・・・・・ 左手丘の上には住宅団地が広がっている、今度ははっきりと見えてきた、関門橋だ、すると向こうに見えているのは九州か、 海峡を大型の貨物船が過ぎて行く。 前田郵便局を通って、11時5分、国道9号に下りる。 関門橋が目の前に見える、左は関門海峡、 向こうに見えているのは門司「壇ノ浦古戦場」の標示を過ぎる、みもすそ川公園に、義経と知盛像、安徳天皇入水碑、壇ノ浦古戦場跡碑、 馬関開港百年記念碑、などがあり、「壇ノ浦砲臺舊址」の石碑があり、下関戦争や攘夷戦で使われた、長州砲(精密なレプリカ) が海峡に向けて設置されている。 関門橋の下を通って先へ進む、左下の海峡の海水の流れに驚く、音を立てて流れている、大きな川よりもはるかに早く激しい潮流だ、 もちろん潮の時間があるとは思うが、これでは平家の船も手の施しようがなかったと実感する、時間は11時半ちかい. 6〜7分で右手に「赤間神宮」が見えてくる、安徳天皇と平家一門を祀る赤間神宮の楼門は竜宮城をかたどり海に向かって立っている・ 元は阿弥陀寺で、源平合戦の6年後、建久2年(1191)後白河法皇の勅により、安徳天皇の御霊堂を建立、菩提を弔わせたのが始まりで、 明治8年、阿弥陀寺を廃した跡に、明治天皇の勅により赤間宮を創建、昭和15年に神宮の称号を宣下された。 神宮の横には安徳天皇の陵がある。 日清戦争の講和条約締結の舞台になった「春帆楼」が隣り合ってある。 5分ほどで「亀山八幡宮」に着く。 「関の氏神様」「亀山さま」と親しまれている亀山八幡宮は、平安時代、貞観元年、(859)宇佐八幡宮から勧請され、 下関60ケ町の氏神さまとして尊崇されている。 昭和8年に建立された、日本一と言われる大鳥居の前に「山陽道碑」が立っている。 「ここは山陽道の起点、九州渡航の起地なり、山陽道第一番塚なり(長門国誌)」の案内板が立っている。 明治11年立てられたもので、当時は海上交通の要衝で周防灘三関(上ノ関・中ノ関・下ノ関)の一つで、下関市の名称はこれに由来する。 時に時刻は、11時55分、ついに山陽道の終点(起点)に着いた。 神社にお参りし旅が無事終了したことのお礼を述べた。 |
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付録 4月に、京都を歩き始めた時には、下関まで歩けるとは思ってもいなかった。もし歩けるとしても年を越すかも知れないと考えていた。 西国街道・山陽道を通して570kほどか、19日かかっている、岡山、広島と遠くなるほど初日の歩き始める時間が遅くなり、帰る日の切り上げも早くなる。 雨にあったのは3回、神戸は昼食の間に雨はやみ、明石ではもうその日の終盤、ただ旅の最終日は、朝から一日本降り、靴もぐしゃぐしゃになったが、 これ以外は傘をだすシーンはなく、天候に恵まれ、事故もなく無事到達できたことを感謝している。 達成感に浸った後で、関門橋のところに戻り海底の人道トンネルを歩いて門司へ渡った。780mで10分ほどでいける。ウォーキングしている人もいる、 中心に向かって少し下っているので、向こうは見通せない、海底で山口県から福岡県に入り、門司で一旦地上にでて、本州を眺め、又、歩いて帰ってきた。 帰りの新幹線は小倉から乗車したが、すっかり寝込んでいるうちに新横浜に着いた。 完 このページの先頭に戻る topに戻る
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