熊野街道(熊野古道)    
   

  
 
  
  熊野街道は現在の大阪市天満橋付近の八軒家浜(渡辺の津・窪津とも呼ばれた)を起点に熊野三山に至る古道である。

この熊野三山に向かう道にはいくつかのルートがあるが総称して熊野古道と呼ばれている。 京・大阪から田辺を経て本宮、那智へ

向かう中辺路、(大阪から田辺までを紀伊路と呼ぶ) 田辺から海沿いに那智に向かう大辺路、高野山から十津川を通る小辺路、

伊勢からの伊勢路などがある。

平安時代の宇多法皇の行幸から京の上皇、貴族の間で熊野への参詣が頻繁に行われるようになったといわれる。平安時代中期から

鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれる時代が続いた。 江戸時代に入ると熊野詣は伊勢詣と並び広く庶民が行うようになった

といわれる。

熊野街道(特に紀伊路、中辺路)には大阪の起点であった渡辺津(八軒家浜)から熊野三山までに、熊野権現を祭祀した99か所の

王子(遥拝所)があった。人々はその社頭に参拝し休憩をとって次の王子に向かい熊野を目指した。(現存するものは少ない)
  
 
               
            紀 伊 路

 京都から船で淀川を下り、八軒屋浜(現在の天満橋付近)で上陸し、住吉、堺、岸和田を通過、雄ノ山峠から和歌山に入り、紀ノ川を渡る

海南から、みかん山やみかん畑の道を通って御坊に出て海岸線を田辺に至る。大阪から田辺までを紀伊路と呼んでいる。
                
 
  

  
 
                  1. 天満橋(八軒屋浜) ~ 鳳    2. 鳳 ~ 山中渓  3. 山中渓 ~ 海南   4. 海南 ~ 湯浅 
 5. 湯浅 ~ 印南     6.印南 ~ 紀伊田辺                                                          
 
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     中 辺 路

 中辺路は田辺から本宮、新宮、那智に至る路で、田辺から東に緩やかに丘陵地を越えて、富田川沿いに進む古道は、滝尻から山岳路と

なり急な山道を山中へと分け入っていく。  はるか下方に走る国道から離れた山道で途中、近露で一旦、里へ出るが再び険しい道の

登り下りが続き、伏拝で本宮を望む。 本宮からは子雲取越、大雲取越をえて那智に至り、那智から海岸沿いに新宮に至る。
 
 
 
  
 
 
 1. 紀伊田辺 ~ 下鮎川   2. 下鮎川 ~ 小広峠  3. 小広峠 ~ 熊野本宮  

4. 熊野本宮 ~ 小口 5. 小口 ~ 那智大社~JR那智駅  6.那智駅 ~ 熊野速玉大社
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 小 辺 路

 小辺路は真言密教の総本山、高野山と熊野を最短距離で結ぶ参詣道で、全行程約72キロ、ほとんどが山中を通り、伯母子峠、三浦峠

果無峠と3か所の1000mを超す峠越えがある。

途中、山登りのアップダウンを繰り返し、古い石畳道や茶屋跡、屋敷跡等昔の古道の雰囲気を数多く残している。

 
  1.高野山 ~ 大股 (水ケ峰越)   2.大股 ~ 三浦口 (伯母小峠越)  3.三浦口 ~ 十津川温泉(三浦峠越)
 4.十津川温泉 ~ 熊野本宮大社 (果無峠越)
  
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   大  辺  路

 熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる熊野古道のひとつ。 田辺から串本を通り那智勝浦の補陀洛山寺

まで約120キロの主に海辺の道である。

海沿いの道といっても途中には厳しい峠道が控えている。 大部分の道は市街地や国道に吸収されているが、開発から取り残された

部分が峠道に残されており旧状が比較的よく保たれている。 大辺路の北端は田辺市の北新町道標で、ここから山間の厳しい道や

潮風に吹かれ雄大な太平洋を望む道が続いている。
 
 
 
  1.田辺北新町 ~ 安居(あご)の渡し  2.安居の渡し ~ 田子  3. 田子 ~ 紀伊浦神 4. 紀伊浦神 ~ 那智  
   
   
    伊 勢 路

伊勢神宮から紀伊半島東部を南下する伊勢路は神宮と熊野三山を結び、江戸時代からお伊勢参りの後に伊勢路を通って熊野詣でが

行われた。 「伊勢に七度、熊野に三度」と呼ばれた、だれもが訪れたいと願い、身分や階級を問わず多くの人々が全国から目指した熊野路

有数の多雨地域故に道が流出しないよう地元の人たちで守られてきた石畳、またたどり着いた峠から熊野灘が一望できる。

山深い地域だからこそ旧道が多く残されている。 伊勢神宮から熊野速玉大社まで170キロ。
 

 
  1.伊勢神宮 ~ 大台町栃原  2.栃原 ~ 大内山  3.大内山 ~ 三野瀬 ..   4.三野瀬~尾鷲(八鬼山入口)
  5.八鬼山入口(尾鷲) ~ 新鹿   6.新鹿 ~ 紀伊井田  6.紀伊井田 ~ 熊野速玉大社(新宮) 
 
 
   
      紀 伊 路             
    平成26年4月23日 (水曜日) 晴れ    
               八軒家浜(天満橋~鳳)    
   
 横浜の雨は今朝方まで降っていたらしい、駅へ向かう道は濡れて窪みには水たまりができている。いつもの新幹線に乗りつい

ウトウトしていた。鮮やかな若緑の色に気づき目を覚ますと右手一面に茶畑が広がっている、大井川を過ぎてもう牧の原のあたり

を走っている。

窓からは眩しい日差しが射しこんでいる、今日は晴天になりそう。 新大阪から天満橋に着いたのは8時50分。

 熊野街道の陸路の起点は天満橋の八軒家浜船着場からとされている。 今は淀川には水上バスの八軒家浜の乗船場がある。

京都伏見から淀川を船で下ってこの八軒家浜で上陸し、途中に祀られた熊野九十九王子にお参りしながら、はるか熊野を目指

したという。

土佐堀通りの永田屋昆布店の前に八軒家船着場跡の碑が立っている、ここから1ブロック西へ行った御祓筋に熊野街道の説明碑

がある。  この後これと同様の街道説明板を何度も目にすることになる。  今の時刻は9時10分、御祓筋を上町台地へと

上って行く、御祓筋から右手(西側)は下っていて上町台地の縁を歩いていることが分かる、心地よい風を受けながら低いビル

の間を行く。 

内本町、内久宝寺町を過ぎて、9時35分、南大江公園にある朝日神明社が坂口王子跡といわれ碑と説明板が立っている。

安堂寺町通りに突き当たると榎大明神が祀られ樹齢650年といわれる槐(えんじゅ)がそびえている。 その先の坂の途中に

直木三十五の生誕地跡の碑がある。 安堂寺町通りには古い面影を残した建物がいくつか見受けられる。

八軒家船着場跡の碑 朝日神明社
坂口王子跡
榎大明神 直木三十五生誕地
  
 
  
  谷町筋を渡り次で右折し熊野街道の道標を見ながら空堀通りを南へ所々に街道の面影を感じながら生魂小学校の先を左へ、

上野王子伝承地へ足を延ばす。 上宮高校の前のマンションの入り口に碑が立っていた。 急いで街道に戻り南下する、

20分程も回り道になった、天王寺署で右折谷町筋に出て四天王寺へ向かう。 四天王寺は推古天皇元年(593年)に聖徳太子

により建立された日本仏法最初の官寺で、現在は和宗総本山である。 西門から入ると年齢もさまざまな多くの参拝者で

賑わっている、外国の観光客も交じっている、結婚式を挙げたカップルが記念写真をパチリと。 

 境内南門前に熊野権現禮拝石があり四天王寺に詣でた後、ここで熊野方向に礼拝し熊野までの道中の安全を祈願したと

いわれる。  また熊野まで行けない人たちがここから祈ったといわれる、11時、四天王寺を後にする。
上野王子跡 四天王寺の五重塔 熊野権現禮拝石
  
 
   
 11時15分、JR天王寺駅の歩道橋を渡る左手に先月オープンしたあべのハルカスが聳える、あべの筋に出て阪堺線の路面電車

の通りをすすむ。松虫交差点で旧道に入ると阿部清明神社がある、平安時代の陰陽師、阿部清明はこのあたりで生まれたと

いわれている。

その先に大阪市内で唯一現存する阿部王子神社がある。 時刻は11時40分、再び路面電車の道になり姫松駅から左に閑静な

帝塚山の住宅街を歩く。 大きく開けた万代池公園に沿って歩き帝塚山の駅に来たところで昼食のため喫茶店に入り休憩にする、

時刻は12時5分になっている。

路面電車の道を行く 阿部王子神社 万代池公園
  
 
  
  12時半、出発する、強い日差しが射しているが空気が乾燥しているのか爽やかな風が抜けていく、足も幾分軽くなった

感じがする。

南海線の踏切を渡り住吉東駅の先に、住之江味噌池田屋本舗の風格ある建物がある、明治天皇に15年に亘り献上し、

引き続き大正、今上天皇(昭和)の摂政時代にも献上の光栄に浴した・・・・・・・池田屋の軒先に出ている説明書きより

池田屋の前を西に進み住吉大社にお参りする。 摂津国の一の宮で全国に2300余社ある住吉神社の総本社。

 境内には大きな楠が茂り四つの本殿と赤い太鼓橋が目を引く。海の神として信仰があり古くから航海関係者や漁民の間

で崇敬されてきた。 奈良時代遣唐使派遣の際には必ず航海の無事を祈ったという。

1時5分、街道に戻り南へ、1時40分、大和川に出て遠里小野橋を渡り堺市に入る。

住之江味噌池田屋本舗 住吉大社太鼓橋 第四本宮

太鼓橋 街道風景(墨江付近 大和川
  
 
   
 浅香山の駅を過ぎて前方に高い塀が見えてきたのは大阪刑務所、手前を右に行くと公園の角に境王子跡の碑が立っている。

時計は2時10分、西日が射してくる手先は朝と比べると少し焼けたようだ、反正天皇陵を過ぎて三国丘高校に沿って南下、

竹内街道に突き当たりこれを右折して西高野街道との分岐で左折して西高野街道に入り南海線を越えて歩道橋で国道を

渡り仁徳天皇陵に出る。

御陵に沿ってぐるっと回って正面に出たときは3時10分、何組かのガイドが観光客に説明をしていた。

広大な御陵を正面から眺め、御陵通りを西へ引きかえす、国道26号を渡ると右手に南宗寺が見えてくる。 

茶道や茶人と関係が深く、武野紹鴎や津田宗達、千利休らが参禅し得度している、臨済宗大徳寺派の寺院。 

南宗寺を後に山之口橋から南下する時刻は3時40分。

境王子跡 街道風景、
三国ヶ丘高校近く
仁徳天皇陵
百舌鳥耳原中陵
  
 
   
 山之口橋を渡り御陵通りを越えて熊野街道の道標を見ながら阪神高速堺線の下の府道を歩道橋で越え石津町に入る。

 左手の石津神社に寄る境内にある与謝野晶子の歌碑に2首    

                「人とわれ  おなじ十九のおもかげを  うつせし水よ  石津川のながれ」

                「石津川  ながれ砂川  髪をめでて  なでしこ添えし  旅の子も見し」

 石津神社の先で石津川を渡り歩を進める、4時20分、鳳小栗街道の信号を過ぎて大鳥大社に出た。 

ここにもお参りすることにして立ち寄る。

大鳥大社は和泉の国の一の宮で、平清盛、重盛父子も平時元年(1159)熊野参詣の途中に立ち寄り参拝したという。

清盛は  「かひこぞよ  かえりなはてなば  飛びかけり  はぐくみたてよ  大鳥の神」 と詠んだ。

大鳥神社を出て少し行くとJR阪和線の鳳駅に着いた、時計は4時45分、時間はまだちょっと早いがこの先まで行くのには

2時間近くかかると思われるので本日はここで終了にすることにした。 

八軒家浜を出てからここまで街道距離としては24キロ程度しか稼いでいないが、途中の王子や神社、寺院への寄り道を

したのでかなりの距離を歩いていると思う、少し疲れも感じている、本日宿泊予定の堺東駅へ向かうことにする。
熊野街道の道標 与謝野晶子歌碑
石津神社境内
大鳥大社
  
 
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  平成26年4月24日  (木曜日)  快晴   
        鳳 ~ 山中渓   
   
 朝の空気はひんやりと、一点の雲もなく晴れあがっている、早めに宿を出て電車を乗り継ぎJR鳳駅に6時40分に着く。

鳳本通りの商店街を抜けて行く。急ぎ足で駅に向かう通勤、通学の人たちとすれ違う、6時50分、府道30号の上、交差点に

出て南に向きを変えるしばらく府道を歩く。 7時5分、高石市に入る。 散歩中と思しき年配者とすれ違う、富木に来た所

で等乃伎神社(とのき)に寄り道をする。人気のない静かな社殿に頭を下げる、古事記下巻仁徳天皇の段に記載がある

と説明がある。

街道に戻り、府道から離れて旧道に入り、7時半、堺泉北有料道路の下を通って住宅地に入っていく。通学中の小学生が

増えてきた、見守りのボランティアの人が交差点や横断歩道で活躍している。 このあたりにも旧道の雰囲気を伝える

家がある。 聖神社一の鳥居を過ぎて左に細い道を入った民家の先に篠田王子跡がある時刻は7時45分、

朝のうちは日が照っていても空気が冷えているので風が気持ちいい。

等乃伎神社 街道(和泉市王子町) 和泉市の道標
  
   
 八坂神社の先で左に入り坂を上って行くと放光池公園の交差点の角に平松王子跡の碑が立っている。 

陸上自衛隊信太山駐屯地にかかると隊員が気合の入った号令をかけながらランニング中(?)、小栗街道の石標が

立つ道に入ると風情のある街並みが残っている。やがて泉井上神社に着く。 泉井上神社は「和泉」の地名の発祥

となった和泉清水を祀っている。 

現在の本殿は慶長10年(1605)豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもので、国の重要文化財に

指定されている ・・・・・・神社の説明板より    時刻は8時半、和泉府中駅は右手すぐ。

平松王子跡 和泉市府中町 泉井上神社
  
 
  泉井上神社を過ぎて昔の面影の残る町並みを歩き府道との合流点に井ノ口王子跡が子宝地蔵堂と並んで

立っている。  9時5分、岸和田市に入る、大町の信号を過ぎてJR久米田駅前に来たところで、今朝は食事も

とらずに歩いていたので道路脇のミスドに入り休憩する。 

一息入れて9時半に出発、岸和田といえばだんじり祭りと思って歩いていると街道左手に額町のだんじり庫

があった。  熊野古道沿いの額町や額原町のだんじりは平安期の上皇の熊野行幸にちなんだ伝承が彫刻に

施されているという。

その先に積川神社遥拝鳥居がありそばに (白河上皇・後鳥羽院遥拝旧跡地) の碑がある、白河上皇が熊野へ

の御幸の途この地から東方5キロにある神社を遥拝された。熊野参詣をする皇族、公家の方々はこの地から

積川神社を遥拝され旅路の安全を祈願された。  10時20分、虎橋を渡って貝塚市となる。

街道沿いの建物 額町だんじり庫 白河上皇遥拝の地
  
 
  麻生川を過ぎて左に古道に入り半田の一里塚を目指す、ため池の脇を歩いて10時40分、半田の一里塚に到着する。

高さ4m、周囲30mで樹木に覆われほぼ完全な形を残す数少ないものの一つ、以前には前方にもう一つ同じ塚があった

と言われている・・・・貝塚市

水間鉄道の踏切を渡り石才の町を過ぎて貝塚中央病院の前を過ぎると、急にうっそうと繁った木々に包まれた

緩やかな上り道にかかる。 長谷川ノ坂と呼ばれるこの一帯は古道の面影を色濃く残している。 小栗判官を

土車に乗せて照手姫が引いて上がったという伝説がある。

阪和線を渡りイオンのところから右に入った南近義神社には鞍持王子、近木王子が合祀されている。

 日差しが強くなり暑くなってくる、南近義神社を出てちょっと道をロストしていた、おかしいかなと思いつつ

進んでいたが、やはり間違っていると思い近くの人に聞いて修正、正しい街道に戻る。 

時計は11時55分を指している佐野王子跡を経て府道の合流したところで昼にする。

半田の一里塚 一里塚付近の街道 長谷川ノ坂
  
 
  30分も休むと足の疲れも回復する、12時45分出発、すぐに左古道に入り佐野高校を過ぎる、関西空港自動車道の

下をくぐって樫井の町並みに入る。 

樫井王子跡は民家の庭の奥、普通では探せない、うろうろしていると自動車会社の若い兄さんが王子ですか?  

 と声をかけてくれた。 どうぞ中に入ってくださいと言われて民家の門を入って庭の奥まで、庭木に包まれて

碑が立っている。 古い雰囲気をのこした街道沿いに塙団右衛門の墓少し進んで淡輪六郎兵衛の墓がある。 

慶長20年(1615)4月、大坂夏の陣の樫井合戦で豊臣方の先鋒隊を率いて、紀州和歌山城主浅野長晟の軍と

戦うべく泉州に進んだ、塙団衛門、淡輪六郎兵衛は4月29日早朝、熊野街道を南下し待ち構える浅野軍に突入した。

激戦が展開されたが大坂方は敗れこの地で討ち死にした、団衛門は時に48歳という、両者の縁者が墓を建てて

弔っている。  街道を進むと明治大橋の手前に樫井古戦場跡の碑が立っていた。

明治小橋から坂道を上がり一岡神社の横の坂道を下りていくと畑の広がる中に厩戸王子跡があった。

樫井王子跡 塙団右衛門の墓 淡輪六郎兵衛の墓

樫井の街道 樫井古戦場跡の碑 厩戸王子跡
  
 
  さらに歩を進めて2時20分、信達に着いた、通りには屋号を記した札を掲げている家もあって、街道らしさが残る

元宿場町で本陣跡が残っている。   信達の町は通りの中ほどでちょうど藤祭りが開催中で藤を見る人で

にぎわっている、見事な藤の花に心を癒され先に進む、街道風情の残る道が続く。

JR和泉砂川駅は左手の方に、信達の町並みを抜けた池のところに信達王子がある。

岡中で左に曲がって信達岡中の町筋を抜ける、右手に阪和線が近づいて緩やかな坂を越すと

JR和泉鳥取駅前に出る。  時刻は3時半を過ぎている、和泉鳥取駅の前に波太神社拝伏鳥居が立っている、

この近くに長岡王子があったというが場所は特定できないらしい。

古道は左に進み「琵琶ケ岸懸」と呼ばれる熊野街道の難所があるが、通り抜けできないので下まで行って元の道

に戻り進む。

 阪和線、阪和自動車道が並行してくる、地蔵堂王子、馬目王子跡を過ぎたときは4時10分になっている。

信達の町並み 信達宿本陣 藤祭りの藤の花
  
 
  高速道路をくぐり道が大きくカーブして山中宿の入り口に着く。 府道から左に石畳で整備された街道が

伸びている。  緩やかに上っている山中宿は本陣跡や旧庄屋宅、賽の神など古道の面影がよく残っている。

本陣跡は元和5年(1619)徳川賴宣公が紀州に封ぜられてより参勤交代の本陣があった跡地、また紀州街道の

山中宿のこの付近には当時二十余軒の旅籠が軒を連ねていたが時代と共に姿を消し最後まで残っていた

「とうふや」も昭和の終わりころにその姿を消した。 

面影の残る山中宿を過ぎてJR山中渓駅に着いたのは4時40分、両側に山が迫る静かな山里の町にはすでに

夕暮れが近づいているように感じられた。


今日は街道距離で40.7キロ思いのほかよく歩けた、ここで終わりにし和歌山市に向かう。
山中宿 旧庄屋屋敷 山中宿本陣跡地

街道風景山中宿 熊野街道の道標 山中渓駅を特急が
通過していく
  
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     平成26年4月25日  (金曜日)  晴れ    
        山中渓 ~ 海南    
   
 6時半、山中渓駅から歩き始める。 両側の山に挟まれた谷にJR、府道が通っている、中腹を阪和自動車道、

日は山の上の方にあたっているが、ここまでは届いていない。 歩く人などいないと思っているのか自動車が

スピードを出して過ぎていく、歩道もないので注意して歩く。

上り道を歩いて20分、大阪府と和歌山県の府県境が見えてくる。 府県境にある境橋の手前(大阪側)に日本最後

の仇討場の碑がある。 安政4年(1857)土佐藩士、広井大六は同藩士、棚橋三郎に口論の末切り捨てられた。

大六の一子、岩之助は当時江戸に申し出て「仇討免許状」を与えられた。 加太に潜んでいた三郎を見つけた

岩之助は改めて紀州藩へ仇討を申し出た。紀州藩は三郎を国払いにするので仇討ちしたければ境橋付近(泉州側)

にてすべしと伝えた。 

文久3年(1863)岩之助は境橋の北側で三郎を待ち受け見事に仇討を果たしたとされる。

これは日本で許された最後の仇討であるとされる・・・・・・・・碑のそばに立つ説明文による

境橋を渡り和歌山県に入る、ずうっと道は上っていき紀州最初の集落滝畑に入る。 

JRの踏切を渡ったところに中山王子がある、滝畑の集落を過ぎて再びJRを渡り返し県道に出る。

日本最後の仇討場 中山王子跡 滝畑集落
   
   
 緩やかな上りが続いている、目の前の山の湧き出すような若葉が日を浴びている。 阪和自動車道と

並びついに自動車道が右下になる、JRは既に道の下トンネルになっている。道路を上り詰めたところが雄ノ山峠、

現在の気温は11°、峠の先に小さな祠に峠の不動明王が祀られている、何人の旅人を見送ったであろうか?  

峠を過ぎると急な下りになる、前方に紀ノ川の展望が開けている、ヘアピンカーブの続く道を上ってきた自動車

が峠を越して急にスピードを上げていく気持ちがわからないでもない。 

道を下りきって湯屋谷の追分から旧道に入ると、山口王子跡が万葉歌碑と並んでいる、時計は7時40分。

この先で山口神社に立ち寄り県道に戻る、西へ向かって歩くが県道は道幅が狭いうえに歩道もなく

和歌山方面へ向かう自動車が多い、通勤の時間帯なのか、自転車の高校生も過ぎてゆく。 県道から左に入って

狭い道を進み、川辺王子跡、さらに集落の道や農道を進んで中村王子跡力侍神社に着いたのは8時50分。 

神社を出ると一面にれんげが咲いた道に、このあたり狭い道が続いているが分岐点や分かりにくい場所には道に

熊野古道の導石が埋め込まれているのでその矢印の記す方向に進む。 

山口神社のあたりから大きくUの字型に歩いているような感じがする。西に向かった道が南に向いて今度は

東へ大きく回って紀ノ川の川辺橋に9時10分に着く。

川辺王子跡 道に埋められた導石 れんげ畑の中を

 紀ノ川はこのあたりまで来ると思ったより川幅があり渡るのに10分もかかった、道標に沿って吐前王子跡を

過ぎ集落の中を通って布施屋自治会館で左の道に、三叉路にある川端王子跡を過ぎ井ノ口の集落から南に向かう、

このあたりも古い家が並んでいる。 布施屋の駅から熊野古道は狭い道が続いているが親切な道標が要所に

建てられているので迷うことなく歩くことができる。

和佐小学校の先に国指定重要文化財「旧中筋家住宅」が堂々たる構えで立っている。 

明治初年まで大庄屋を務めた、紀ノ川流域随一の大規模民家で土日祝日は一般公開している。 きょうは金曜日

で公開日ではなかったが作業中の人と話をしていると、横浜から来たことを知り建物の中へは入れられないが

と言って、門の中までは見せてくれた。

時に時刻は10時20分、今日も暑い日差しが注いでいる、和佐王子跡を過ぎて矢田峠の上りにかかる。

街道風景(井ノ口) 旧中筋家住宅表門 矢田峠への道
   
   
 最初は石畳道で上りが急になると階段になる、コンクリート舗装がされているので足を取られることはない、

急な上りは短く峠の頂上に出る。峠を過ぎるとみかん畑の中の道を心地よい風を受けて下ってゆく、

上る時と比べて下りはなんと楽なことか!

県道から左に平尾に入って平緒王子跡に11時5分に着く。  県道13号に出たところでこの先の道中には海南まで

コンビニや食堂がないだろうことが予想されるので、左手何百mか先に見えるコンビニへ寄り道をして、

昼のおにぎりと飲み物を用意する。

コンビニの場所は伊太祁曽神社の門前でちょうど参道の入り口近くにある、そこで伊太祁祖神社に

お参りすることに。  伊太祁曽神社は紀州の国の一の宮で木の国、紀伊国の祖神が祀られている。

神社の木陰で一息入れ、ちょっと寄り道をしたが時刻は11時30分、海南を目指して街道に戻る。 

奥須佐の山本農園の店先で先ほど買っておいたおにぎりで昼をすます。途中のどが乾いたら

水分代わりにといってみかんを6つもいただいた、時期外れで売り物ではないからと。

矢田峠頂上 伊太祁祖神社 伊太祁祖神社
   
      
 12時20分、出発、奥須佐、吉里と集落を過ぎて阪和自動車道をくぐり日差しの中のどかな道が続く、

県道から左に熊野古道は狭い道になる、途中工事中の場所があり迂回左に阪和自動車道を見ながら進む、

四つ石地蔵を過ぎる、街道風情の残る多田の集落を通る、民家に突き当たって右に曲がり県道に出たところに

松坂王子がある。   ここからは県道を進む、海南市のクリーンセンターを過ぎ汐見峠を越えると道は下り、

井田の交差点を過ぎ川に沿って春日神社の標識に沿って急な上りを行くと林の中に松代王子跡がある。

川沿いの道に戻りさらに進んだ先に菩提房王子跡、道標に従い右折して進み一之鳥居跡で左折して

祓戸王子跡へ、山を上り四国八十八カ所巡りの石仏が並ぶその先の山中に王子跡がある。

山を下りて元の道に戻りさらに500mほど進んだ藤白神社に藤白王子が祀られている、着いたのは2時10分、

お参りをして今回はここまでとして海南駅に向かう。  

駅に着いたのは2時40分、3時36分の特急まで肩の荷物をおろし靴ひもを緩め少しゆっくりと休む。 

本日は32.7キロ、3日とも天気に恵まれ予定通り天満橋(八軒屋浜)から海南まで93.1キロを歩くことができた、

 次回はまだ未定だが・・・・

四つ石地蔵 熊野古道、多田集落 松坂王子跡

祓戸王子跡 海南市の道標 藤白王子
   
         
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    平成26年5月28日 (水曜日)    晴れ   
       海南 ~ 湯浅   
   
 新大阪から新宮へ向かう特急「くろしお」は途中、天王寺と和歌山に止まって海南駅に10時14分に到着した。 

駅に降りてしたくを整え外に出る、紀州の空からは早くも暑い日差しが降り注いでいる。 駅前ロータリーに

黒御影石に刻まれた万葉歌碑が。

  紫之 名高乃浦之 靡藻之 情者妹尓 因西鬼乎  (紫の名高の浦のなびき藻の 心は妹によりにしものを) 

万葉集といえばこの人 犬養孝、阪大名誉教授の書によるもの。

道路に埋め込まれた熊野古道の表示も趣を異にしている、町並みを過ぎていくと家々に熊野古道の表示が

下げられているが、朱塗りのお盆に書かれているように見える。 街道表示に従いさらに先に進むと民家の軒先や道に

熊野古道と標した提灯が下がっている通りに出る。

海南駅前之万葉歌碑 古道沿いの家 熊野古道の提灯
  
   
先月(4月)歩いた箇所に差し掛かる右手にある鈴木屋敷に寄る、 海南市教育委員会の説明板に、鈴木姓の元祖とされる

藤白の鈴木氏の屋敷跡、上皇や法皇の熊野参詣が盛んとなった平安時代に熊野から移り住み、熊野三山への案内を

務めたり、熊野信仰の普及に努めた。 また、牛若丸(源義経)が熊野往還にはこの屋敷に立ち寄り山野に遊んだこと、

一族が後年、源義経の家来として衣川館で戦死したことなどが書かれている。 屋敷には曲水泉の庭があるが屋敷の

老朽化が進み庭も放置されたままの様子、もう何十年も人は住んでいないらしい、造園の時代は室町時代と考えられ

ている。

鈴木屋敷を出て、4月に来た五体王子社の一つである藤白王子社を祀る藤白神社にお参りし今回の旅の安全を祈願する。

 10時55分、海南湯浅道路をくぐった先に悲劇の皇子有間皇子(ありまのみこ)の墓がある。

孝徳天皇の皇子、有間皇子は、斉明4年(658)11月に謀反の疑いで捕えられ、牟婁の湯(白浜の湯崎温泉)に行幸中の

天皇のもとに護送され、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の尋問を受け、そこからの帰り道この藤白坂で絞殺された、

19歳の若さであった。

皇子が護送の途次、自らの運命を悲しんで詠んだ歌が2首のうち1首が、佐々木信綱博士の筆で刻まれた歌碑が

立っている。

   家にあれば 笥(け)に盛る飯(いい)を 草枕  旅にしあれば  椎の葉に盛る

曲水泉の庭 藤白王子社 有間皇子の墓
  
 
  有間皇子の墓の傍らに丁石地蔵が立っている。 藤白坂の距離を明確にするとともに憩の場所と道中の

安全を祈願するためにと、海南市名高の専念寺の高僧、全長(ぜんちょう)上人が17体の地蔵を一丁ごとに安置した、

以来250年の間に丁石地蔵は谷に落ちたり、地に埋もれたりして消え、昭和56年には現存するものは4体になって

しまったがその後新しい地蔵を加えて17体が復元された、この「一丁地蔵」は当時(享保の初めころ)のもので

「丁石」としては全国的にも貴重なものである・・・・説明板より

ここから藤白坂の始まりで峠まで一丁ごとに丁石地蔵がが祀られている、反対側から降りてくるグループとすれ違う。

四丁石から舗装道を離れ左に地道の階段の本格的な上りになる、林の中の道なので日差しは受けないがそれでも

汗が噴出す。

八丁石まで上ってくると前方が開けて海南の港が見えてくる、竹林の中を筆捨て松、硯石の遺跡を過ぎ丁石を

数えながら長い上りを汗を拭き拭き上り詰めたところ道が平坦になり11時30分、塔下王子を祀る地蔵峰寺に着く。

 四丁石 階段の道に  硯石  塔下王子
  
   
 地蔵峰寺の裏手に回ると熊野路第一の絶景といわれる御所の芝が広がる。 海南、和歌の浦方面を深紅に染める

夕景に心が落ち着くといわれ、熊野詣での上皇たちが仮御所を造ってここから絶景を眺めたという。 

ここで海を眺めて一息入れる、塔下王子の下の数軒の集落を過ぎるとみかん畑の中の急な坂道を下る、

長い急な下り坂が農道と交差しながら続く、前方の山の峰に風力発電の風車が9基回っている、随分ゆっくりと

しているように見える。 膝が痛くなるような急坂を下ったところが下津町の橘本、橘本王子跡へより、時計は11時55分。 

夏を思わせるような太陽が照りつけている、風は涼しいので日陰に入れば涼を感じることができる。 

 この先にまた峠の上りがある、食料品店に立ち寄り昼食用にパンと飲料を買うもちろん飲食店などない。

下津町市坪の集落に入り市坪川に沿って山に向かって歩く、風車の見えていた山だ。 所坂王子のある橘本神社

にはみかんの先祖である橘の木があった。  市坪の町並みはとてもきれいに整備されている、加茂第二小学校の

先に山路王子神社が祀られている、一壺王子・沓掛王子とも呼ばれ、市坪、沓掛の氏神となっている。 

境内にある土俵では秋の大祭にはTVニュースなどでお馴染の「泣き相撲」が行われ村内外の幼児の健康を祈願する。
 御所の芝からの眺望  街道風景・橘本 山路王子神社
  
 
  日は容赦なく照りつけ真昼の太陽に照らされる自分の影は小さい、風車の回る山の入り口、沓掛の上り口に着く

時計は12時45分になっている。県道と別れ民家の間からいきなり急な上りが始まる、拝ノ峠まで急な上りは続く。

県道は大きく左へ迂回していく、こちらは直坂をまっすぐ上る、この急な坂の途中にも民家がポツポツと建って

いる、みかん山がよく手入れされて広がっている。

拝ノ峠をめざして上っていく、汗はとめどもなく噴き出す、目に入るようになってくる、本当に山の上に県道が

回ってきて民家が何軒かある、日常の生活の大変さを思うのは余計なお世話か?

 道脇に道路改修の記念碑がたっているが県道が改修されたのはいつごろのことだったのか・・・・

民家も尽きみかん畑も途切れ、最後の上りを控えて休憩をする、ひと踏ん張りして1時15分、拝ノ峠に着く

ずいぶん汗をかいたものだ。

峠の分岐点に万葉歌碑がある。

   安太部去 小為手乃山之 真木葉毛 久不見者 蘿生尓家里

    安太(あて)へ行く 小為手(こいで)の山の 真木(まき)の葉も 久しく見ねば 苔むしにけり  

       (安太・・・有田地域のこと)

拝ノ峠の上りとみかん畑 みかんの花 万葉歌碑
  
   
 道標に従い尾根道の蕪坂を下るが又、急坂こうなると下りは楽ともいえない、膝がかえって痛い、蕪坂塔下王子跡、

爪書地蔵を過ぎ山口王子跡を過ぎて平地に下り街中の道になる、JRきのくに線を渡って2時半、有田川の渡し場跡に出る、

宮原橋で有田川を渡り越えてきた拝ノ峠を振り返るよく超えてきたなと思いながら、涼しい川風を感じる。

堤防道を下りて中将姫ゆかりの得生寺を過ぎる、糸我稲荷神社の横のくまの古道歴史民俗資料館は休館日、

すぐ熊の道と彫られた文久3年の道標をすぎ3時5分、糸我王子跡を通過、今日三度目の峠、糸我峠に向かいみかん畑の

上りにかかる、道はコンクリート舗装されているが軽トラックでもしんどいだろうと思う道だ、3時30分、糸我峠に着く、

茶屋跡があり耐久高校の美術部の生徒によって江戸時代の糸我峠の茶店の様子が描かれている。

 有田川と拝ノ峠を振り返る 糸我峠の上り 江戸時代の茶店の様子
  
 
  峠を過ぎるとみかん畑の間に湯浅の町が見えている、急な下りもまた同じ、夜泣き松、行者石、逆川王子とすぎて、

4時5分、湯浅の町に下りて警察署、法務局を通過して北栄橋を渡り街中に入る、熊野古道の通る道町通りを行く、

右手伝統的建造物保存地区が広がり江戸時代から昭和の初めまでの建築当時の状態で保存されている。

また醤油醸造の発祥の地としても知られている。 熊野古道は室町時代より湯浅の商店街を通っており旅人の

物資調達や宿場町として栄えた。 通りの中ほどに立派な熊野古道の道標が立っている。 

有名な紀伊国屋文左衛門は湯浅が生誕地で国道沿いに紀文生誕地記念碑があり、古道そいに紀伊国屋

文左衛門之碑が建てられている。 4時40分、湯浅駅に到着したところで本日の街道の旅は終了とし

宿に向かう、それにしても大きな峠越えが三か所もあり急な下りが続いて膝の痛みを感じている、

明日が少し心配歩けるだろうか?   

宿の窓からは湯浅の海が見えている。

糸我峠から湯浅の町が 立石の道町道標  紀伊国屋文左衛門之碑
  
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     平成26年5月29日 (木曜日)   晴れ   
       湯浅 ~ 印南   
   
 足の痛みは思っていたより回復している普通に歩けるようだ、しかし今日もまた峠越えの道がある。

早朝に湯浅の町の重要伝統的建造物保存地区の見学をする、鍛治町、中町、北町、浜町を中心とした

醤油醸造が盛んだった一帯に醸造業関連の町家や土蔵の伝統的な建物がよく残されている。 

まだ朝5時を過ぎたところで誰にも合わない早朝散歩をしているつもり。 

街の散策を終えて6時に改めて宿の前を出発する。

紀文生誕地碑 湯浅の町並み 同左
 伝統的重要建造物保存地区
  
   
 宿から50mほどのところの久米崎王子に寄り国道42号から左に旧道に入る、今日も進行方向の山に発電風車が

16基見える。   広川に沿って進み高速道路の敷地内にある津兼王子跡は表示のみ、国道とついたり離れたりして

井関の集落旧旅籠通りには家に昔の屋号が表示されている。 今時刻は6時45分、朝なので涼しく気分よく歩いている、

予報は今日も暑くなるらしい。

この後すぐに峠が待っている、河瀬橋を渡って国道に別れ旧道の河瀬王子を過ぎると人家も次第になくなり、7時5分、

東の馬留王子から、鹿ケ瀬峠の上りがはじまる。 鹿ケ瀬峠まで2340mの表示を過ぎる、コンクリート舗装の道が伸びて

いる。

7時25分、峠まで1200mの表示に着く、朝のうちといえどもやはり汗が噴き出す、一歩一歩踏みしめながら上る、国道は

ずっと下方になった。 峠まで700mの表示の先から新しく石畳で舗装された道になる、道の途中に動物除けに設けられた

歩行者用の柵を開けて進む。

上り始めて40分、峠に祀られている痔の地蔵に着く、道がなだらかになって7時50分、大峠(鹿ケ瀬峠)に到着、

少し開けた広場になっていて休憩用のベンチなども置かれている、ここで荷物をおろし肩を少し休める汗をふき

写真も撮って小休止、ホトトギスが鳴いている、途中鶯やホトトギスの鳴く声がしていたが聞く余裕もなかったので改めて

鳴き声に耳を澄ます。

鹿ケ瀬峠への道 石畳の上り 鹿ケ瀬峠にて
 
 
  10分ほどの休憩を取って大峠を出発、急坂下り5分で小峠、小峠からは熊野古道で現存する最長の石畳道が続く、

往時の旅人も踏みしめたであろう石畳道を10分下り、熊野古道公園を過ぎて平地に出るところで数頭の鹿があわてて

林に逃げ込んでいく。

原谷集落に下り金魚茶屋跡を通過、原谷は日本一の黒竹の産地で軒先に束ねた黒竹が立てかけてある、

家先で黒竹を切り揃えている男性に話を聞くと、自然に生えているそうで1年目は青く2年目になると次第に

黒くなっていくらしい。 今時刻は9時。

峠を下りてきたので汗は引いている、田植えを済ませたばかりの田を渡る風は涼しい、振りむけば越してきた

鹿ケ瀬峠が見える。

平地はやはり歩きやすい、沓掛王子、西の馬留王子、内の畑王子と過ぎて行く。 萩原集落を通過し9時50分、

内原王子神社に到着。 境内に藤原定家の歌碑が立っている。 建仁2年(1201)後鳥羽院の熊野詣でに随行して

切目王子での歌会の時に詠まれたと考えられている。

    萩原や 野べより野辺にうつりゆく 衣にしたう 露の月影

鹿ケ瀬峠を越えた石畳道 原谷の黒竹 内原王子神社
  
 
 JR線を右方向に見ながら下萩原の集落を行く、部落の有線放送が誰かの訃報を伝えている、いやに大き

い声で聞こえる。  10時を過ぎると太陽も力を増してくるがずっと風があり、日の暑さと風の涼しさ両方を

感じながら、小さい上りや下りを繰り返しながら集落や田んぼが点在する道を行く、道標やガードレールに

張られた案内を頼りに善童子王子、民家の間細い竹藪の中の愛徳山王子跡を過ぎ11時、小野橋に来たところで

左5000mほど離れた道成寺に寄り道をする。

安珍と清姫の伝説で知られる道成寺は大宝元年(701)文武天皇が夫人藤原宮子の願いを受け創建したといわれ

現在は天台宗のお寺である。 

本堂にお参りし少し時間を取って見学した後、少々早いが昨日のようなことにならないよう参道の店に入って

昼食にする。
道成寺仁王門 本堂 三重塔
  
 
 
 街道に戻ったのは12時、小野橋から海士王子跡、宮子姫生誕の地を通りJR線を渡って街中を進み日高川に

架かかる野口新橋を渡る、橋にある清姫にちなんだ大蛇のモニュメントが目を引く、右折して堤防上の道をまっすぐ

河口方面に歩く、吹き抜ける川風が昼過ぎの一番暑い時間を少しまぎらせてくれる、人には合わない。 

岩内王子跡をすぎて集落の中を河南中学校を目指してゆく交差点や曲がり角の熊野古道の表示が進行方向を

示してくれるのでわかりやすい。 中学の下から小さな峠を越える、このあたりに来て気づいたが昨日から

続いていたみかんの山や畑は日高川を渡ったあたりからすっかり姿を見ない。 かわって道の脇には

梅が目に着くようになってきた。

住宅地の軒先のような細い通りを通って1時55分、塩屋王子に着いた、美人王子とも呼ばれるこの神社は

今日では美しい子が授かると若い夫婦や女性の参拝が盛んであるという。

鳥居をくぐって境内に後鳥羽上皇在所之跡と伝わる御所の芝跡がある

日高川の土手 岩内王子跡 塩屋王子神社
  
   
 塩屋王子を後に王子橋を渡り塩屋の集落を進む右手民家の向こうは国道42号、海抜数メートルの場所、

想定される南海地震、東南海地震で津波が来れば・・・・・・・

国道に出る手前で右へ里道に入る民家の間をすり抜けて少し切通しになったところを抜けると目の前に

紀伊水道の眺望が広がる海を見ながら進み国道に下りてしばらく国道を歩き熊野古道は右に国道を離れていく、

安珍を追ってきた清姫がここで草履を脱ぎ捨てはだしで安珍を追ったという清姫の草履塚が左手にある。

さらに進んで国道に合流したところに海が広がり波音が聞こえる。
海に出て小休止、海からの風を受けて

暑さもしばし忘れる。

眼下に広がる紀伊水道 清姫の草履塚 海に出て小休止
  
   
 加地漁港を過ぎ3時5分、和歌山高専、向かいの名田小学校のモダンな校舎を過ぎる、下校してゆく

児童が歩いている、もう夏の服装。 

上野漁港の前に上野王子跡その先少し上った駐車場の中に清姫の腰掛岩がある、再び国道に合流して

御坊市と別れ3時50分、印南町にはいる、国道に棕櫚の並木が続く右の海にまたちょっと寄る、

足が疲れてきた歩きが遅くなっている、新しい空気を胸に入れる。

坂を上って右へ津井王子に着く今日尋ねる最後の王子、神社の前からは印南の漁港が一望、今日は

小さい漁港を何か所か通って来たが、ここははるかに大きく漁船もいっぱい止まっている。

清姫の腰掛岩 浜に出て一呼吸 棕櫚の並木
  
   
今日は印南に宿をとっているのでもうすぐに到着する、神社をおりて海べりの公園によると、靴を脱いで休んでいる

旅支度の人にであった。 御坊から歩いてきたそうで行けるとこまで行く予定だという、泊まるところがなければ

公園でもどこでもキャンプを張るという、しばらく話をして別れた。

印南はかつお節発祥の地だという、かつお節発祥の由来が書かれている。

 かつお節は印南漁民の開発したものである。徳川時代初期印南漁民は船団を組んで日向方面に出漁していた。

 万治3年(1660)印南漁民、初代甚太郎が土佐足摺岬沖に豊富な鰹漁場を発見、以来船団員は年々通漁して

その地に仮住まいのうえかつお節の製造を行った。

漁港の近くの宿に着いたのは5時になっていた。

津井王子(叶王子) 印南漁港 かつお節発祥の地看板

  
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    平成26年5月30日  (金曜日)  晴れ   
       印南 ~ 紀伊田辺   
 
  天気が続いている今日も夏日になるらしい、今回は今日で切り上げ家に帰るので早めに田辺に到着したい。

6時50分、宿を出る印南の港を眺めながら朝の日差しを浴びて南へ、7時20分、切目王子に到着。

切目王子は、崇神天皇(第10代天皇)の67年(2~3世紀)の建立と伝えられている。 平安、鎌倉時代(11~13世紀)

の300年間は特に熊野詣でが盛んでこの時期、行幸の中継遥拝地点として数百人もの宿泊地となった。

五体王子の一社である。

熊野詣での途次都の反乱を早馬で知らされた平清盛・重盛はこの社前で評定ただちに都に引き返し大勝に至った、

平治の乱(1159)である。


王子を出て切目の町に入る、登校中の小学生とすれ違う、古街道の面影が残る町筋の理髪店にみごとな

さつきの鉢が出ている。

朝の印南港 切目王子 さつきの鉢
  
   
 切目駅の横でガードをくぐり切目中山王子に向かう、坂道を上って振り返ると切目の海が広がっている、急な坂を

上って森の中の切目中山王子社に着く、王子には足神さんと呼ばれ足の悪い人たちがお参りに来て草履や靴などを

収めていく祠がある、昨日から少し膝に痛みを感じているので無事歩きとおせるようお願いをする。

神社から榎木峠に向かって土道になり静かな山道を行く、峠を過ぎると梅林の中の下りになる。 

収穫まであと少し間があるのかいっぱいに実をつけた梅林が続く。 

緩やかな下りを続け、したまでくると前方に海が開ける、そこで左折し右に海を見ながら進む。

海、JR、国道、ビニールハウス、を少し高い位置から見ながら進み南部町に入り国道に合流し狭い歩道を歩く。

切目中山王子 梅林の道 梅の実
  
   
 西岩代の国道脇に有間皇子結び松の記念碑がある、海南の有間皇子の墓のところで記したが、

謀反のかどで捕えられ護送される途中、紀の湯を眼前に望み当地の松の枝を結びわが命の平安無事を

祈って2首の歌を詠まれた1首は先に記した。

  岩代の 浜松が枝を引き結び 真幸くあらば また還り見む

紀の湯での尋問に対し有間皇子は 「天と赤兄と知る吾知らず」 と答えられたが、願いむなしく帰路、

天宝4年(658)11月11日藤白坂において絞殺された。  その後王子を偲んで山上巨憶良、柿本人麿、

川島皇子他10首の和歌が万葉集に載せられている。

記念碑から200mほど離れた所にある有間皇子の万葉歌碑まで足を延ばす、有間皇子のうたが刻まれている。

時刻は8時40分、国道に戻って進み国道から下りガードをくぐってJRの岩代踏切を渡って海岸に出る、

海に向かって岩代王子が祀られている、砂浜に打ち寄せる波音を聞きながらお参りする。

有間皇子結び松の記念碑  岩代王子 王子前の砂浜
 
  
 
  街道に戻って9時5分、岩代駅を通過、梅干しを作る工場がある、新しく舗装された広い道を上って海から

少し山の中へ入っていく。

照りつける日差しの中、汗が止まらない、要所の道標を確認し大丈夫かなと思いながら山道を通りぬけ

JR線をくぐると千里の浜に出る。 砂浜が広がっている紀伊路で唯一海浜を歩ける区間、200mくらい

千里の浜の砂浜を歩いて千里王子神社に着いたのは10時、この浜はウミガメの産卵地になっているらしい。

 神社の前に立ち海の空気を全部吸い込み体の隅々までいきわたらせる。

横の千里観音にお参りして又谷間の山道を進み線路をくぐって右折、梅畑の中を南部峠へ歩く、

南部峠の分岐に祀られた地蔵は骨折に霊験あらたかと記されている、ここを右に道を取り緩やかな道を

平地へと下りていく。   南部梅の産地でいくつかの梅干し工場が見える国道沿いには工場直営の

売店があって観光バスが着くようになっている、山の方には南部梅林が広がっている。

梅干館に寄って小休止、甘酸っぱい梅アイスでちょっと元気を取り戻す。

千里浜 千里王子 千里砂浜を歩く
  
 
 南部川を渡って南部の街中に入る旧家を思わせる家並みがある、11時15分、三鍋王子神社に着く、神社を出ると

南部の街の中心部をまっすぐ南へ南部駅前を通過、南部高校を通り鹿島神社を過ぎ11時35分国道42号に出て

海沿いの道になる。

すぐ左にはいり国道の一段高いところを街道は通っている、多分昔の国道がこれで下に新しく付け替えた道が

現在の国道になっているのだろう。 みやげもの店や飲食店、民宿が並びその向こうに海、海と国道を右下に

見ながら補給した冷たい飲料水を飲む、喉を通る感触が何とも言えない。

 どこからか聞こえるサイレンの音、正午を告げている、照り付ける太陽、にじむ汗をぬぐいながら12時5分、

田辺市に入る。

松井橋の先で国道を渡り12時30分、芳養(はや)王子社(大神社)に着く、熊野九十九王子のなかで最初から

六十九番目の王子になる、芳養も古い町並みが続いている。

昼時なので戸外にいる人はほとんどいない、芳養の一里塚を過ぎてまた国道42号に出るしばらく国道を進む。

街道風景・南部 三鍋王子 芳養の町

  
 
 市民球場前の信号を過ぎ、明洋で国道から右へ進む、江川児童公園の中に潮垢離浜跡の碑が立っている、

かってここは熊野に参詣する人々が潮垢離を取った浜。(海水をあび穢れを払う儀式) 後鳥羽院に随行した歌人、

藤原定家も前日から体調が良くなかったにも関わらず、ここで潮垢離を取ったという。

 そして1時15分、道を少し入ったところにある紀伊路最後の出立王子に到着、これから熊野古道は山間部の

中辺路へと進む。

 田辺の市街に入ると陶器やの角の大きな本町道標には 「右 きみい寺  左 くまの道」 と刻まれている、

さらに進むと北新町道標が立っている。 

この地方の中心都市田辺はいままで通過してきた町とはちがいさすがに商店街も人通りが多くにぎわっている。

 右に蟻通神社をみて田辺駅はもうすぐ、1時40分、紀伊田辺駅に到着し今回は終了とする。

 3日間夏の天気に恵まれ(?) 急な下り坂に膝をがくがくさせながらもなんとか予定の行程を踏破することができた。

  すべてのことに感謝 !
潮垢離浜跡碑 本町道標 北新町道標
  
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     中 辺 路      
      
    平成26年9月27日  (土曜日)  晴れ   
       紀伊田辺 ~ 下鮎川   
   
 5月に紀伊路を歩き終えてから4か月になる、彼岸も過ぎ暑さも峠を越したこの時期天候の安定するのを待っていたが

、26日から10月の初めまでは雨の予報はない、急きょ旅立ちを決めた。

JRは予定通り正確に11時11分、紀伊田辺に着いた。 また、夏日が戻ってきたかのように晴れ渡っている。

少し早いが駅近くで昼食を済ませ、駅から5~6分、闘鶏神社へ寄り道をする。

義経の命を受けた弁慶は、父であり熊野水軍の統率者である熊野別当・湛増を説得、社前で紅白の鶏を戦わせ神意を

確かめ、白鶏が勝ったので、源氏に味方することを決意、湛増指揮のもと武蔵坊弁慶を先頭に総勢2千余人が壇ノ浦に

向かって出陣した。源氏の勝利に大きな役割を果たした、文治元年(1185)3月のことであった。



闘鶏神社


湛増と弁慶像

 12時田辺駅に戻り街道に向かう、駅から15分、会津川を渡ったところの高山寺に立ち寄る、田辺の市街と田辺湾が見下

ろせる高台にある真言宗のお寺、境内の墓地にある世界的な博物学者・南方熊楠、合気道の開祖・植芝盛平の墓に

お参りする。 先の弁慶と併せこの3人は田辺の三偉人とされている。

12時25分、高山寺を出て会津川沿いの道を進む。 田辺から本宮への道は中辺路と呼ばれる山間部へ入って行くが、

今日の行程はほぼ平坦。

秋津王子跡を過ぎ道標に従い万呂王子が合祀されている須佐神社を1時5分に通過、JAを左に曲がって左会津川の

堤防を歩く。 雲を見つけるのがむ難しいくらいに青空が広がり心地よい風が吹き抜ける、気温は28~9°ちかくに

なっているのだろうか? ゆるやかな風がありいい気分で歩いている。 堤防や刈り入れの終わった田のあぜ道

には赤い彼岸花が綺麗だ。 県道に合流して熊野橋を渡った先、梅畑の中の万呂王子跡を1時25分に過ぎる。

左手少し上った高台の住宅の前に白鳳時代創建といわれる国指定史跡、三栖廃寺塔跡がある、塔跡の位置などから

法隆寺式伽藍配置で寺域は方一町(100m四方)と推定されている、塔基壇の規模から三重塔と考えられている。

街道に戻り下三栖バス停を1時45分に通過、その先を右に曲がり善光寺橋を渡り道を少し上った先に三栖王子跡

がある。 通ってきた万呂方面が見渡せる、時刻は1時55分、ここを下りたところで道路工事をしていた、そのせい

ではないが、ここで大きく道を間違えてしまった。

高山寺多宝塔 下三栖の街道 万呂方面を見下す

 元の地点に戻ったのは2時40分、一気に疲れが倍増する気を取り直して進む。 八上王子跡は3時10分、

岡の集落を進んで田の中の田中神社に3時25分に着いた、南方熊楠が命名した「オカフジ」が茂っている。

深見の集落の先、古道は荒れているとのことで県道から国道311号の稲葉根トンネルを通って3時50分、

稲葉根王子に到着。神社では数人の男性が祭礼の準備中、富田川のほとりの稲葉根王子宮のすぐ横には水垢離場

があり、ここで罪や穢れを流した。 

稲葉根王子の先、国道の三叉路に、平成9年百余年ぶりに川底より姿を現した樹齢500年ともいわれる、楠の

大古木のモニュメントがある。 このあたりの富田川は広い川幅で河川敷公園にはコスモスと彼岸花が咲いている。

写真撮影の人も何人か。 国道を歩き、一ノ瀬橋で左岸に渡り、集落の奥の一ノ瀬皇子跡に4時25分に着く。

川の左岸を進む、本宮方面への国道は広い流の向こう側、途中、庚申道標を過ぎ30分歩いて鮎川橋を渡り

今日の宿、民宿「加茂」に到着した時は5時になっていた。

風呂で汗を流し、食事を終わってTVを見ていると御嶽山が噴火したとのニュースが流れている、多くの登山者

が灰に埋もれているらしい、今日の昼前だという。

道を間違えた以外は、たいして疲れなかったが、明日の山道に備え早めに布団に入る

八上王子宮 稲葉根王子宮 富田川(岩田川)

  
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    平成26年9月28日 (日曜日)   晴れ   
      下鮎川 ~ 小広峠   
   
 6時半、宿を出発、9.5キロ先の滝尻から本格的な山道の上りになる、今日からの道中は大変な道になるからと

民宿の主人が杖を持たせてくれた。 

今日も空は抜けるように青い、古道の標識に沿って坂道を上がり住宅地を通りぬけると国道の脇に鮎川王子跡の碑

が立っている。 

富田川を渡り左岸に出た、住吉神社には鮎川皇子が合祀されている、ここの第三殿は鮎川王子の春日造社殿を

移築したもの。

住吉神社を出て坂道を歩いていると、後方からランニングウエアーで追いついてきた人が並びかけてきた。

歩を緩め一緒になって歩いてくる、年配の女性だが語る処に寄れば、全国のマラソンレースに出場しているという。

毎日2時間ばかり走っているらしい、旅は道連れとばかり少しの間話ながら歩き、10分ほど一緒に歩き7時15分、

御所平に来た処でお互いの健闘を祈りつつ走って去って行った。

熊野古道の道筋の斜面上に小さい平地があり御所平と呼ばれている。 

永歴元年(1160)から三十余回にわたり御幸された後白河法皇の頓宮(仮の御所)があった場所と言われている。 

その上の薬師如来は特に耳の病に効くと今も土地の信仰を集めている。

 したを流れる富田川(岩田川)の瀬を御所の瀬と呼んでいる。

御所平の先の道端に藤原定家之歌碑がたっている。

     「そめし秋を くれぬとたれかいはた河 またふみこゆる 山姫のそで」

 早朝の街道、鮎川 御所平 藤原定家、歌碑
  
   
 舗装道路から梅畑のあぜ道を通って山道に入る山の西斜面、川から10m~15m程度のところに細い道が続く、

陽は川の向こうの山を照らしている、こっちは日陰、林の間から対岸を見ながら道祖神や庚申塚が祀られている

道を進み、念仏淵を通過、川を渡ってきた国道の下をくぐって急な登りとなる。 

大うなぎ生息地碑や古い石仏を過ぎる、左下は富田川、北都(ほくそぎ)の集落に下りて舗装道路となる。

7時55分、富田川に架かる吊り橋を渡って右岸を上流に向かって歩く。

8時20分、清姫の墓に着く、執念のあまり大蛇となって道成寺の釣鐘に隠れた安珍を焼き殺したという話が

良く知られているが、ここ地元、真砂では代々続く荘司の一人娘で、世をはかなんで川に身を投げたと伝わっている。 

 清姫堂には道成寺の鐘を模した小さい鐘があり、たたくといい音が響いた。

国道に出て8時50分、滝尻に着く、熊野古道館があり無料休憩所になっている、ここで一息入れて休憩を取る。

古道館には上皇や貴族たちが歌を書き残した熊野懐紙写しや、古道沿いの遺跡からの出土品が展示されている。


道祖神 山道の古道 清姫の墓
  
   
 この先約2時間山道になり売店、自販機もないので飲み物を用意、古道館で一休みした後、滝尻王子にお参りし、

9時10分に出発。

滝尻王子社は五体王子の一社で、熊野詣での上皇たちはここで歌会や神楽奉納を行った。

滝尻王子横からいきなりの急な登りになる、ここからは500m毎に番号道標が立てられている。

階段状の山道が続くこれがまた長い、少し登るだけで汗が噴き出す、途中胎内くぐりの大岩や、

藤原秀衡にまつわる伝説が残る乳岩を過ぎる。 

奥州の豪族、藤原秀衡が夫人とともに熊野参りに来たとき、急に産気づきこの岩屋で出産した。 

夫妻は赤子をここに残し熊野に向かったが赤子は岩から滴り落ちる乳を飲み、狼に守られて無事だったので

奥州に連れ帰った。 

その子が成長して秀衡の三男和泉三郎忠衡になった ・・・・・・・ そばの説明書きより

9時30分、不寝王子跡を通過、ここでまだ500m、20分かかっている。  登ること40分、9時50分に

剣の山経塚跡に出て尾根道となる、登ってきた道はずっと杉林の中、直接日差しは受けないが汗はびっしょり、

シャツが肌に張り付いている。


熊野古道館にて 乳岩 林の中に続く古道
  
   
 道が少し平坦になると木漏れ日の道は気持ちよく快適、道を進み左手にある展望台へ登る、ここの高度は336m、

はるか下の学校では運動会の最中か? スピーカーの音楽が風に乗って聞こえてくる、今時刻は10時、

滝尻からまだ1.6kしか進んでいない。

展望台から急な石畳の下りをおりて林道から、又、登りなおして針地蔵を過ぎ急な丸太の階段の登りを経て頂上の

TV塔を通過し集落に出て10時45分、高原熊野神社に着く。 高原熊野神社は応永10年(1403)本宮大社からご神体を

勧請されたといい春日造の室町前期の建築様式を残す中辺路最古の建物といわれる。

神社の先、高原霧の里休憩所で小休止、これから近露まで9.3k、約4時間山中の登り下りが続く、昼にはちょっと早いが、

霧の里「たかはら」で昼食休憩にする。

テラス席で食事をしている、風が吹き抜ける、はるか下方に集落が広がっているのが一望でき、目を上げると奈良県

との境、果無山脈が連なり、空は青く空気は澄んでいる、標高は320m位か


高原熊野神社 遠くに果無山脈 下方に広がる集落
  
   
ゆっくり休んで11時半出発、石畳の登りに旧旅籠通りが続く、昔の屋号を門前に掲げた家が何軒か、石畳を上り詰めて

地道に出たところに庚申さんが祀られている、頭の先が欠けているのは賭け事に効くということで、削って持っていく

人がいたらしい。

12時、一里塚跡を通過、和歌山より24里、江戸時代和歌山から本宮までの熊野街道の一里毎に道の両側に塚を築き

里程の標識としていた。

杉林の中の登り道、道の番号標識は9番、まだ4.5k、一旦平坦な道になり又上り坂になる、杉林を上っていくと12時10分

、高原池にでる、山中で静かに水をたたえている。 この近くには平安時代に熊野に参った、藤原宗忠が泊まった仮屋が

あったと推測されている、10分登ると大門王子の赤い祠がある。 どこまでも続く杉林の上り下りを繰り返して十丈王子跡

を12時50分に通過切り開かれた場所に東屋が建ち、休憩所になっている。 

1時、小判地蔵を通過、飢えと疲労のため小判をくわえたまま、この地で倒れた巡礼を弔ってまつられたもの。

25里の一里塚を1時20分に通過、この4kに1時間20分かかっている。

中辺路で一番標高の高い悪四郎山の山腹にかかる、中辺路最高点を過ぎ少し下って上多和茶屋跡に出る、688m、

時刻は1時半、大正の頃には民家もあったらしい。

石畳の古道 高原池 上多和茶屋跡
  
   
 道は逢坂峠への下りに入り、林道に出てまた坂尻の谷の幅の狭い石畳を下りていく、2時10分、大阪本王子跡を

過ぎる、一旦国道に接しまた、山道に入る、国道には道の駅があり観光バスも止まっている、この先1kのところ

には、人気の牛馬童子像が祀られている。 

山中の道で旅物語のバッチをつけたツアー一行、三十名ばかりに出会った、観光バスから牛馬童子へ行っての帰り

だろう。 山中に入った道は箸折峠に出て2時40分、26里の一里塚を通過、2時45分、牛馬童子像に着く、

ここだけを尋ねる人も多く、写真撮影の順番待ちが出来ている。 牛と馬に跨ったかわいい石仏が祀られている。

牛馬童子が祀られているこの場所は、花山法皇が御経を埋めた所と伝えられ、石仏の牛馬童子は花山法皇の

旅姿だというようなことも言われている。

箸折峠にもどり近露に向かって下りに入ると、朝9時過ぎから歩き続けてきた杉林の向こうに近露の里が一望できる。

急な石畳を下って集落に出て日置川にかかる北野橋を渡ると近露王子跡に着く、時刻は3時をまわったところ。


箸折峠 牛馬童子像 近露の里
  
   
 近露は熊野街道の宿場として賑わったところで、江戸時代には十軒ちかくの旅籠があった。 

今日泊まる「月の家」はすぐそこ、3時15分、宿に着く、主人が今日はまだ早いから、明日の行程を少しでも楽に

歩くため、今日のうちに行けるところまで行った方がいい、そこまで迎えに行ってやるからと言ってくれた。

願ったり叶ったりで、荷物を降ろしすぐ出発した。

鎌倉時代、大塔宮護良親王を助けた野長瀬一族の墓地に参り近露の町を過ぎ楠山坂の登りから杉林を暫く歩く、

野中の集落に入り3時55分、比曽原王子跡を通過、4時5分、和歌山から27里の一里塚跡を過ぎる、4時15分、

継桜王子社に着く。

 この王子には枝が一方にだけ張り出している野中の一方杉がある。

長い石段を上ってお参りする、野中は山の中腹を街道が通っていて古道の面影が良く残っている。

王子社からすぐ下に、熊野街道を歩く旅人がのどを潤したという名水「野中の清水」が湧いている

  「すみかねて 道まで出るか 山しみず」   服部嵐雪  

 宝永2年(1705)5月、伊勢、熊野に参り田辺へ行く途中にここで詠んだ句。

  「いにしえの すめらみことも中辺路を 越えたまひたり のこる真清水」  斉藤茂吉

昭和9年9月、熊野に来て自動車で白浜に向かう途中に詠んだ短歌。

道に戻り秀衡桜、4時25分、阿部清明の腰かけ石が民家の庭先にある、4時35分、道から少し上って中川王子跡に行き、

道を急いで4時55分、小広王子跡に着くこの先小広峠を越すと又、山道になる、ここでTELをして迎えの車を待つ。

暫く待って宿の主人が迎えにきて、2時間かかって歩いた道のりを10分ほどで宿に着いた。

朝6時半に出発してから5時過ぎまで休憩時間も入れて10時間以上、今日は結局29.5kを歩いた、山道のきつい登りを

考えると足も痛くならずよく歩いたものだと思う、風呂でゆっくり汗を流し、足をもみほぐした、明日はいよいよ

熊野本宮大社に着くだろう。

継桜王子社 街道風景、野中 野中の清水

  
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    平成26年9月29日 (月曜日)   晴れ   
      小広峠 ~ 熊野本宮大社   
 
  宿の主人の車で6時15分昨日の終点まで送ってもらうために出発、昔の旅人の唯一の水場だったという、

野中の清水によって冷たい水をボトルに汲み入れる、更に、阿部清明の腰かけ石にもぜひ座れと言って立ち寄る、

おおせに従い石に腰かける、何かいいことが起こるかな?

6時35分、小広峠で車を下りて、本日熊野聖地を訪ねるについて、いろいろと作法を教わる。

主人に別れを告げ小広峠を越える、標高は525m、近露の標高は290m。

峠の先で舗装道路から右に階段状の地道を谷川まで下りていく、川を渡り杉林を上って熊瀬川王子跡に6時50分に着く。

まだまだ太陽は山の端に当たっているだけ、和歌山から28里の一里塚を過ぎて、草鞋峠に向かって九十九折れの急な

登り坂が続く、7時5分、峠に着く、草鞋峠は標高592m、西に小広峠、東に岩神峠を控え、谷川を上っては下りる相次ぐ峠の

一つ。

阿部清明の腰かけ石 28里の一里塚 草鞋峠
  
    
 峠から一転して今度は急な下り坂、女坂と呼ばれる、杉の丸太で土止めがされた九十九折れを下って林道に出る。

その先は土砂崩壊のため通行止めのため、う回路に回るように指示されている、う回路は1時間半かかると表示がある。

時刻は7時20分、初めは林道を10分歩き、林道から左へ下りるとなんと大変なう回路が待っていた。

山の斜面に細い道が延々と続く、斜面には土砂の崩落跡も見られる、この道は山の西斜面なので陽は当たっていないが、

汗は容赦ない、目に入ってくる、首にかけたタオルで汗をふきふき、小さな歩幅で一歩一歩、昨日もらった杖がここでも、

おおいに助けてくれる。   7時55分に頂上に着いた。

山の反対側に出て木の間から陽がこぼれる道を下って、8時15分、林道に下りる、しばらく林道を歩き8時30分、

蛇形地蔵に着く。

冷たい水が流れ出ており、首に巻いたタオルを浸して当てなおす、冷んやりとした感触にまた元気が出る。

湯川川を渡りまた杉林に入っていくと、湯川王子社がある、江戸時代には人家も多く茶屋もあったと記録にあるらしいが、

今は面影はない、しかし杉林の中に石垣の名残を見受けられるところがある。

杉丸太の段々になった急な坂を登り、9時5分、三越峠にでた、広い場所が開け休憩所が設けられている。

蛇形地蔵 湯川王子社 三越峠
  
   
 ここ三越峠は口熊野と本宮大社のある奥熊野の境界で、西の湯川王子から東の音無川の谷へ越えていったところ、

熊野に参る人はこの三越峠で本宮へと流れる音無川を初めて目の当りに見るのですが、

後鳥羽上皇の歌はその時の感慨を詠んだものと思われます。

  はるばると さかしきみねを 分けすぎて 音なし川を けふみつる哉

中世には関所をおいて関銭を徴収したと伝えられ、江戸時代から大正のはじめまでは茶屋が設けられていた

          ・・・・・・説明板による

峠を越えて下りになる、階段状の下り坂が続き9時30分、林道に出てしばらく歩き林道から右に分岐して急な

石段を下りる。

右手には音無川の細い流れを見て進む、道が平らになり歩きやすくなる、また道は林道になっている。

小広峠を出て3時間今日はまだ誰にも出会っていなかったが、ここで古道を上ってくる若干若いと思える

ハイカーと出会う。

9時55分、船玉神社に到着、古道の番号道標は59番、滝尻から29.5kになる、林道から右に下りて10時5分、

猪鼻王子に着いた。

滝尻王子から本格的な山岳路となった中辺路は標高600m、700mのいくつかの峠を越え、594mの三越峠を

越えて熊野川の流域に入り、猪鼻王子から先の道は登り、下りを繰り返しながら高度を下げ熊野本宮大社へ

と続いていく。

杉林の下り道 船玉神社  猪鼻王子
  
   
 一旦林道に出てたっくん坂と呼ばれる急な登りを20分、発心門王子に着く。 

五体王子の一社でここからが本宮の聖域といわれ、かつて大鳥居が建っていたと伝わり、朱塗りの社殿が再建されている。

この王子の名は発心門すなわち「悟りの心を開く入り口」とされる大鳥居があったことに由来する。

社殿の前は古道歩きの外国人グループ20名ほどが順番に鈴を鳴らしてお参りをしている。

社殿が空くのを待って、こちらは宿の主人に教えられた作法に則り、手前にある木の鳥居の前でリュック、帽子やカメラ等、

身に付けてているものを全て降ろす。

手水で手、口をすすぎ、木の鳥居さらに奥の石の鳥居をくぐり社殿へ、二礼は同じ、その後両手を下から四段に揺すりあげる

熊野の地に入りここまで無事に来れたことの御礼を云い、又再度、四段に揺すりあげ、聖域に立ち入らせてもらうことを

お願いする。

ここはバス便もあり、古道歩きのツアーの人気スポット、道も整備されているので普通の姿の観光客が歩いている。

写真を撮ったりして10時35分に水呑王子に向かう。

発心門王子(木の鳥居) 発心門王子 発心門王子
  
   
 舗装された杉林の道を行く、途中で先ほどの外国人グループを追い越す、11時、廃校になった分校跡のかどに

水呑王子跡の碑を見て、ここから山中の地道を15分ほど歩き、伏拝の集落に出る、集落を上る途中左手には

果無の山々が連なっている、稜線がくっきりと青空に立っている、昼の太陽は真上から照っているが心地いい風がある。

11時30分、伏拝王子跡(ふしおがみ)に到着、休憩所があり、古道歩きの人たちが賑やかに昼食中。

京都を出発した熊野参詣の人々はおよそ260km、歩行12日前後でこのあたりにたどり着いた。 

そして熊野三山巡拝の最初の目的地である本宮がはるか彼方の熊野川の中州に鎮座する光景を目の当たりにして、

感動のあまり「伏して拝んだ」という。

王子跡の境内には和泉式部の供養塔と一定の距離を示すため13世紀に建てられた傘塔婆がある。

王子跡からは谷の向こうに本宮が白く小さく見えている。


果無の山が 伏拝王子跡 谷の向こうに小さく本宮が
  
   
11時40分、伏し拝みを出発、緩やかな地道の下りとなる、途中で宿で持たせてくれたお弁当を広げる、

当地の目張りずしが入っていた。 

緩やかな道をひたすら下って、三軒茶屋跡へ十津川からの小辺路との合流点は九鬼ケ口関所跡、道はまた登り

となり古道歩きの人とすれ違う、いよいよ本宮が近づいて歩いている人もふえてきた。

展望台の案内に沿ってちょっと寄り道をする、切り開かれた丘の上からは伏拝で見た時よりも、大きくはっきりと

大斎原(おおゆのはら)の大鳥居が見下せる。

街道に戻ると石段の下りが続いている、ここまでくると道の険しさはない緩やかに下っていく、

そして住宅団地が見えて石段を下ると住宅の中を通って祓戸王子跡に着く。

本宮大社裏鳥居の直前にあり、熊野本宮参詣の前に巡礼者は旅の汚れを祓い清めた、

これまでの道中での祓いにも増して重要であった。

すぐ先に見える熊野本宮大社裏鳥居をくぐり境内に入る、時刻は12時55分、

境内はいっぱいのツアーのバッチをつけた観光客で込み合っている。

大阪天満からの長い道のりは約240㎞険しい山坂を越えて、ついに熊野本宮大社の社前に到着、

ある感慨に包まれて参拝をする。

大鳥居がはっきりと 古道を下る 本宮大社

西御前、御本社、東御前 拝殿
  
   
 熊野本宮大社は熊野三山の首座、全国に五千数社をかぞえる熊野神社の総本宮。

東御前(若宮) 天照皇大神   御本社(證証殿) 素戔嗚尊  西御前(速玉宮) 御子速玉大神 

(結宮) 熊野夫須美大神御主神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、樹木を支配される神であり、紀の国(木の国)の

語源もここから起こっている。

熊野御幸は約千年前の宇田法皇の御幸をはじめ約300年にわたり法皇、上皇、女院の御幸は百数十回に及んだ。

日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣で」などとうたわれた。

その後、源平の乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまな変災の家中にありながら、人心の信仰はますます高まり、

当宮の神威は熊野午王(おからす様)の神符とともに全国に伝搬して明治時代に入った。

現在の社殿は享和二年、徳川家斉将軍の命によって紀州候、治宝卿が音無里(現国史跡、大斎原)に建立されたが、

明治22年の大洪にあって現在地に修造して遷座された。  ……… 社前の説明板より

本宮大社にゆっくりとお参りし、旧社地、大斎原に向かう、本宮から田の中の御幸道を歩いて5分ほど、

前方に高さ34mの大鳥居その奥に広大な社叢林が見えてくる。 

明治22年の大水害で流されるまでここに多くの社殿を構えていたという、旧社地、大斎原は上、中、下、各四社の内

上4社を除く中、下社の八社殿、二棟が非常な災害をこうむり、明治24年現在地に遷座し、中四社、下四社並びに

摂末社の御神霊は、ここ大斎原に、仮に石祠二殿を造営し、左に中、下、四社を、右に元境内摂末社をお祀りしている。

本日もいい天気にに恵まれて、峠が連続する中辺路のクライマックスの道を歩きとおすことができた、

見学とお参りを済ませ2時過ぎに、今日の民宿、花水月に着いた。

高さ34m、大鳥居 旧社地、大斎原 中、下四社、末摂社
  
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    平成26年9月30日 (火曜日)   晴れ   
        熊野本宮大社 ~ 小口    
   
  本宮の町は霧に包まれている、今朝本宮を離れる前にもう一度、熊野本宮大社にお参りするため6時15分、宿を出て

大斎原から本宮へと回る。  森に囲まれた広大な大斎原はかつての本宮の大きさを物語っている。

熊野本宮大社へ足を延ばす、昨日はあれほどのツアー客で混んでいたが、朝(6時半)の本宮には一人の人もいない。

鳥居から望む長い石段も全く人影は見えず、今朝は正面から長い石段を登り参拝する、誰もいない社殿で頭を下げると

何か清々しい気持ちになる。  

霧に包まれた大斎原 人影のない本宮の石段 朝の本宮

  
   
 参拝を済ませ一度宿に帰り、リュックを背に7時に出発する。

今日は小雲取越(こぐもとりこえ)が待っている、本宮から古道入り口の請川までは新宮へ向かう国道168号を歩く。

約4キロ下地バス停まで歩いて7時40分、熊野古道に入る。   石段を登り民家の間を抜けて山道へと入っていく、

暫く上ると左下に熊野川の展望が広がってくる。 広い川はほとんどが河川敷の石ころで埋まっているが2011年9月の

台風12号のときには、川幅いっぱいに水があふれ通常の熊野川の水面より20mは水嵩が上がり一帯に甚大な災害を

もたらしたことを思い出す。

前半は約4キロ上り坂、500mごとの番号道標で所要時間を計ってみる、石段の登りが続くところは7~8分、尾根道で

平らな箇所は5分、急坂が続くと10分の見当、周辺は杉林、樹齢は比較的若く20年~30年というところか?

登りを歩き続け8時32分、松畑茶屋跡に着く、熊野参詣道、中辺路の派生ルート「大雲取」「小雲取」沿道にある茶店の

一つで、やや広い平坦地に石垣を積んだ屋敷跡が二段にあり、墓地の跡もある。

少しの間腰をおろし、荷物もおろして休憩する。


霧包まれた熊野川 熊野川の展望 松畑茶屋跡

  
   
小休止のあと水分を補給して、8時35分に出発する、尾根道の平坦な道が続く、5分ほど歩いて8時42分、

熊野古道伊勢路への分岐点を過ぎる、左方向へ万才峠を経て熊野市方面へ下りてゆく道。

道は登りとなって急な登りを上ると目の前がパッと開けてきて百間ぐらに着いた。

小雲取越えの道中最高の如法山(609.5m)の西斜面、ここが小雲取越えで眼前に大展望が広がっている。

熊野三千六百峰といわれる幾重にも重なった山並みが美しく、北西には果無山脈の稜線が、

西南に遠く横たわるのは南紀で最高峰の大塔山(1121.8m)を中心とした大塔山系、峠の両側に祀られている

小さな地蔵さまにお参りし、しばらく雄大な景色を眺めて一休み。

百間ぐら 紀南の山々 百間ぐらで
  
   
 雄大な景色を楽しんで活力を取り戻して9時15分、出発ここから下りが続き歩きやすい尾根道になる、

林道を横断すると皇太子殿下行啓の地の碑が立っている、昨日から所々で見かけていたが、平成4年5月に

熊野古道を巡られたようだ。

そこから道を上り急な階段を下りたところに賽の河原地蔵が祀られている、道が平になり9時50分、

石堂茶屋跡に着く。

杉林の中に代々茶屋を営んできた人々のものといわれる墓石が並んでいる、江戸から明治にかけてのものと

言われている。

往時の生活を偲ぶことができる。  東屋がたち休憩所が設けられている。

賽の河原地蔵 石堂茶屋跡 杉林の快適な道
 
  
   
 しばらく快適な尾根道を進む、木の葉からこぼれる日差しがやさしい、急な登りの階段を上がって10時25分、

桜峠に着く。

標高466mで最も高い、峠には斉藤茂吉の歌碑が立っている。

  まさびしきものとぞ思ふ たたなづく 青山の ま乃川原をみれば

峠から急な下り坂になって10時37分、桜茶屋跡に着く、ここで標高は403m、明治末期まで茶屋があったそうで、

庭先に山桜の大木があったのが名前の由来だとか。 茶屋跡は眺めのいいところで、明日登る大雲取越を眺める

絶景の場所、今は東屋が建ちはるか下にはこれから下りていく小口の集落が見えている。

桜峠・斉藤茂吉之の歌碑 桜茶屋跡 桜茶屋跡から下方を見る

  
 
  ここからは小和瀬に向かって一気に下りていく、堂の坂と呼ばれる急な下りが2キロ続く、階段状のところや

石畳の道を斜め横になって下りていく、道沿いには多くの歌碑が建てられている。  

今日はこの下の小口で泊まる、このままでは昼には着いてしまいそう、急な石段の下りの最後に 尾切地蔵が

小さい祠に祀られている。

11時40分、小和瀬の集落に下りて民家の間の石段を下りて赤木川に架かった小和瀬橋を渡り小和瀬の

渡し場跡に到着。

ここから今日の宿「小口自然の家」まではもう1キロもない、渡し場跡に休憩所があり、バスのターミナルになっている、

新宮方面へ行くバスはここが停留所になっていて、小雲取越のハイキング客を乗せた観光バスもここに

来るようになっている。

石畳の堂の坂 尾切地蔵 小和瀬橋

  
 
 東屋風の屋根の下で、荷物をおろし休んでいると、この休憩所の清掃をする土地のご婦人が近寄って話しかけてきた。

小雲取を越えてきた今日は小口自然の家で泊まる予定だが早く着きすぎたと云うと、明日の大雲取越えは

もっと大変だから今日はゆっくり足を休めたらいい、ここをきれいに拭いてあげるから横になって少し昼寝でもしてから

宿へ行ったらいいとベンチ、テーブルを拭いてくれた。

3年前の水害の時はこの場所も水に浸かったという、静かに流れている今の川面からは考えられないが、

20mも水位が上がったのならそうなるのかと納得する。

 宿へ電話すると2時にチェックインしてもいいとのことで心地よい風に吹かれてトロトロとしたり、

今日の資料の整理をして時間を過ごしたが、ここでの2時間は全く長く感じなかった。

2時になったので自然の家にむかった、廃校跡を利用した宿泊施設、優しい親切な管理人で、

気持ちのいい風呂で汗を流し、夕食までの2時間半横になってうとうととしていた。

心のこもった夕食で鋭気を養い、明日の大雲取越えにそなえ早く床に着いた。


小和瀬の渡し場跡 道沿いの地蔵さま 小口自然の家で

  
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    平成26年10月1日 (水曜日)   晴れ   
      小口 ~ 熊野那智大社 ~ 那智駅   
    
 夜中に少し雨が降ったようだ、今日の大雲取越えは昨日の比ではない大変な道だと、昨日の夕食時に

大雲取を越えてきた人にさんざん言われたので、覚悟を決め朝食をすませ6時半に出発する。

夜の雨で少し濡れているので特に石には注意するように宿の主人からも注意を受ける。

その名のとおり雲の中へと登るような急な坂道を妙法、大雲取の山麓へ入っていく厳しいルートで那智大社へと

向かうコース。

宿から5分で大雲取登り口の標識の石段を上がる、民家の先からすぐ山道になる。

今日も500mごとの標識ポストを注意しながら歩く、登り口から約4キロ、870mの越前峠まで高度を上げていく、

ちなみに自然の家の高度は60m。

杉林の中を1キロ弱、200m高度をあげ6時50分、熊野の神々が座って談笑したと伝わる円座石(わろうざいし)

に着く。    回りは中根旅籠跡で屋敷の石垣が残っている。

緑の苔に覆われた石畳の急な登りが続く、滑らぬよう慎重に歩く、7時20分、楠の久保旅籠跡に着く、

江戸時代には十数軒の旅籠で大変にぎわったという。 

北に見える小雲取の桜茶屋を指さしてあそこまで宿やがないから、ここに泊まるよう客引き

をしたと、説明されている。  今は杉に囲まれて桜茶屋を見通すことはできないが・・・

苔むした石畳の道 円座石(わろうざいし) 楠の久保旅籠跡

  
 
 このあたりで標高は340m、苔むした地蔵さまが古道を見つめて座している、道にはあちこちに歌碑が立っている。

7時30分、いよいよ最大の難所、胴切坂の登りにかかる、階段状の道がまっすぐに延々と2.4キロ上って、

500mの高度をあげる。

越前峠までの道は行っても行ってもどこまでも続いて先が見えない。  

汗が滴る、シャツは汗にまみれる、石に滑らぬよう気を付けて小さい歩幅で一歩を踏みしめる。 

 何度も立ち止まって水を飲む、すぐ汗になって流れ出てしまうように思う、

それでも歩を進めれば、確実に距離は詰まっていくもので、やっと道が平坦になりすこし歩いて8時25分、

越前峠に着いた。

標高は870mで、500mの高度を55分かけて上ってきた。中辺路で最高所となる、ここにも茶屋跡があったというが

屋敷跡は、はっきりとは分からない。 かつては越前まで見通せたそうだが、現在は杉の林に囲まれてもちろん

見渡すことはできない。

地元、熊野川の小学生が卒業を迎えて登るらしく、学校名と卒業年度を書いた木製のプレートがならんでいる。

古道を見つめる地蔵さま 胴切坂の登り 越前峠
  
   
 峠には斉藤茂吉の歌碑が建っている

       紀伊のくに  大雲取の峰ごえに  一足ごとに  わが汗はおつ

10分休み8時35分に出発、急な下りをカニ歩きで下りてゆく、谷川まで下りて林道と交差するところに長塚節の歌碑が

    虎杖の おどろが下をゆく水の たぎつ早瀬を むすびてのみつ

谷川から再び石倉峠に登ってゆく石畳の急な登りを経て9時5分、石倉峠を通過、山道を15分下って林道へ出ると

地蔵茶屋跡があり大雲取地蔵に32体の地蔵が祀られている、休憩所になっているのでちょっと休む。

長塚節の歌碑 石畳の古道 大雲取地蔵

  
   
石倉峠から105m下って地蔵茶屋跡は700m、ここから20分ほど舗装された林道をじわじわ高度を上げて800mまで上る

林道から地道に入って登り下りを繰り返し10時5分、色川辻に出る、亡者の出会いと呼ばれる八丁坂を上って10時25分

船見峠へ着いた、883mの表示が立っている、とすればここが最高地点になるか、越前峠より10m少し高いことになる。

道が平坦になって右手の森の中、杉林の向こうに太平洋が見える潮岬から串本方面が見えているらしい、森林の所有者の

協力をえて森を切り開き古の眺望を取り戻した、写真で説明もあるが、自分の目からは、はっきり海とは確認できない。 

少し下って10時45分、船見茶屋跡に到着、休憩所があり、ここからは妙法山を挟んで熊野灘をはっきりと

見下すことが出来る。  今日泊まる那智勝浦も見えている。

休憩所で休んでいると、下の方から熊除けの鈴を鳴らしながら登ってきた人が休憩所にやってきた。

那智から大雲取を越えて小口へ向かうという、時計は10時45分、これから自分がやっとの思いで越してきた

多くの峠を越えるのかと、ちょっと心配してあげたが、これは心の中で、自分はもう後約1時間、

那智大社へ向かって下るだけ。

船見峠(883mの表示) 熊野灘が見える 船見茶屋跡

  
   
 船見茶屋跡から那智大社までは4.5キロ、500mを下りていく。 仙右衛門坂を20分下って、登立茶屋跡に着いた。

そばの説明によれば、 熊野詣での人々を癒してきたこの茶屋のことを地元色川の人々は昔から「馬つなぎ」と

呼んでいた。

茶屋は、田辺からの日用品、勝浦からの海産物を商う商店でもあった。  今の国道42号線が整備されるまで、

この道は大阪、和歌山方面への唯一の幹線道路として広く人々に利用されていた。  とある。 

那智大社まで1.5キロのポストを11時15分に通過する左下に車道が近づき車が通っていく、今日初めて見る車だ。

下りが続いて那智高原公園にでる、公園を通り過ぎて、あと500mのポストを11時50分に通過、石段の下りが続いて、

12時石段を下って青岸渡寺の鐘楼の横に出る、左手三重の塔の向こうに那智大滝が見えている。

ついに熊野那智大社に着いた、まず那智大社に回り、護摩符を焚いて参拝し、次に青岸渡寺に線香をあげてお参りする。

宿で持たせてくれた、弁当を広げ、境内や景色を眺め、写真を撮ったりして2時間ちかくここで過ごす。

那智大滝 熊野那智大社拝殿 青岸渡寺


一の鳥居 青岸渡寺山門

  
   
  熊野那智大社は那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として、古来より多くの人の信仰を集めた。

主祭神は夫須美大神(イザナミノミコト)で、万物の生成、育成を司るとされ農業、水産、漁業の守護神また縁結びの神様

諸願成就の神様として崇められている。  社殿は仁徳天皇の五年(317)に現在の地に創建された。

 青岸渡寺は西国第一番札所として知られる天台宗のお寺。

仁徳帝のころ(313~399)印度より裸形上人が熊野の浦に漂着し現在の堂の地に庵を結んだのが始まりと伝えられて

いる。

現在の建物は天正十八年、豊臣秀吉公が発願、再建されたもので桃山時代様式の建物として南紀唯一の重要文化財

である。

 一時半過ぎ那智駅に向かって出発、土産物屋の並ぶ参道の商店街を下って、大門坂を下る。

那智山のふもとから熊野那智大社への旧参道で石段は267段、距離、600m、両側の杉並木は132本で、他に老楠が並び

入り口の老杉は「夫婦杉」と呼び幹回り8.5m、樹高55m、樹齢8百年、平安装束を身にまとった貴族でも歩いていそうな

雰囲気。

1時55分、大門坂入り口を過ぎて那智大社に分かれを告げる。

大門坂 大門坂を下る 入り口の夫婦杉


  
   
 那智大社を後に市野々まで来て、那智山、大雲取を振り返る、越してきた山々が見える、よく来たものだと、しばしの感慨。

市野々には市野々王子神社がある、2時10分に通過、このあたりも水害に遭ったたところ、井関の集落を過ぎ那智川に

沿って県道46号を歩き、3時前、補陀洛山寺着いた、旧浜の宮王子の熊野三所大神社が隣接している。

補陀洛山寺は天台宗、補陀洛渡海の出発地、熊野灘の彼方に観音菩薩が住む浄土、補陀洛があるという、この砂浜から

何人もの人が浄土に向かって旅立った、これを「補陀洛渡海」といった。

浜の宮王子は熊野三所権現を祀り、巡礼者はここで潮垢離をしてから那智山に向かった。 

左手に、中辺路、大辺路、伊勢路の分岐点とされた場所に「熊野街道振分石」の板碑が立っている、古来浜の宮は

熊野街道(中辺路、大辺路、伊勢路)の落ち合う中心宿駅であった、現在の板碑は万治元年(1658)に建立したもの。

3時過ぎJR那智駅に到着、本日の宿泊地、那智勝浦に向かう。

越してきた山 市野々王子神社 熊野街道振分石

  
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    平成26年10月2日 (木曜日)   
      那智駅 ~ 熊野速玉大社   
   
  今日は熊野三山の最後、熊野速玉大社に参拝し今回の古道歩きを締めくくる。

9月27日に田辺から歩き始めて6日め、続いていた晴天も今日は雨の予報が出ている、今は曇り空。

7時11分、那智勝浦の駅を出て那智駅へ7時17分に着き、昨日の終点、浜の宮大神社、補陀洛山寺にお参りし、7時30分、

最終目的地に向かって出発する。

国道42号に出ると交通量が多く、歩道のない箇所が続く、右はJRと海、赤色海岸、後方遠くに那智勝浦のホテル群が

見えている。

7時50分、国道から地道の登りに入り大狗子(おおくじ)峠を越える、再び国道に下りて狗子の浦を過ぎ8時5分、国道から

左へ小狗子峠の登りとなる。 古い石畳が敷かれた部分もあるが、通る人も少ないようで少し荒れている。

10分ほどで住宅地に出て自動車教習所の脇からJRを渡りまた国道へ。  8時半、JR宇久井駅前を通過、右手に

熊野灘が広がる。  8時40分、新宮市に入る、8時45分佐野川を渡った先、佐野王子跡に着く。

小狗子峠 狗子の浦 佐野王子跡
  
   
 国道42号を歩いている、佐野一里塚跡を過ぎ、左には大型ショッピングセンターや家電量販店、

ファストフード店が並ぶ、近隣の小売店はどれくらい店を畳んだのだろうか? 

 新宮港には大型貨物船が停泊し荷積の最中、右下は黒潮公園の松林が続いている。 

公園の中を歩く、歌碑を多く見かける、ここで雨が落ちてきた、まだ弱い降りで傘はいらない。

街中に入り三輪崎小学校を過ぎ小さい曲がりを繰り返し、三輪崎駅に来たところで雨が強くなってきた、

時計は9時20分。

傘を出して広げる、標識から見落としそうな細い道を下りてあぜ道を通り、高野坂の旧道へ登り口に杖が置いてあるので

杖を借りる。 高野坂は1.5キロの区間ながら、往時の面影を残す石畳道が続く、林に覆われた山道だが、

樹の間から雨粒が落ちてくる、膝まで濡れてきた。

途中の地蔵さまや念仏像を過ぎ、雨に煙る熊野灘を見ながら10時、峠を下りた時は靴もズボンもびっしょり。

黒潮公園の歌碑 高野坂の石畳 高野坂に咲く花

  
 
 山道から海岸に出て、王子ケ浜を歩く、天気がいい時は打ち寄せる波音を聞きながら、気持ちのいい海岸なのだろうが、

あいにく今は前方から風を受けて傘で雨をよけながら歩いている、砂で歩きにくい。

20分くらい浜を歩き海岸を離れて国道42号を渡り10時45分、浜王子神社に着く、雨は小降りになっている。

市田川の第一王子橋を渡り市街地に入っていく、雨はやんだ、11時15分、阿須賀神社に着き参拝する。

阿須賀神社は熊野速玉大社の摂社として人々の信仰を集め、元亨2年(1323)阿須賀権現が現在の東京北区飛鳥山に

勧請されるなど全国各地に末社がある。

神社から15分、新宮城跡(丹鶴城)へ行く、関ケ原合戦の後、和歌山城主となった浅野幸長の家臣、浅野忠吉が新宮領を

与えられ、慶長6年(1601)に築城を開始、元和5年(1619)徳川家康の十男、順宣が紀州に入国し、順宣の付家老として

新宮に入った水野重仲が寛永10年(1633)完成させた。

城跡に上ると新宮の町が一望、熊野川の河口方面もすぐ眼下に、与謝野寛の歌碑がたっている。

  高く立ち 秋の熊野の 海を見て 誰に涙すや 城のゆうべに

雨の王子ケ浜 阿須賀神社 城跡から新宮の町



  
 
  城跡を下りて市街地を歩き11時50分、熊野三山、最後の熊野速玉大社に着いた。

熊野三山の一社として主祭神は熊野速玉大神(イザナギノミコト)、熊野夫須美大臣(イザナミノミコト)を中心に

十二柱の神々を祀り新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めている。

熊野速玉大社を古来新宮と呼んでいるのは、最初の祭祀の場である神倉神社を元宮とし、新たに現在地に社殿を

移したことに由来する。

 拝殿に参拝しこの六日間最後の今日は一時間半雨に降られたが、山中の五日間は幸い天気に恵まれ事故なく

熊野三山に参拝出来たことに感謝しお礼を申し上げる、参拝を終えて何か肩の荷を降ろしたような不思議な

安堵感を覚えた。

帰途に着くため新宮駅に向かった。    ・ ・ ・ ・ ・ ・   完

熊野速玉大社

上皇、法皇御幸の記録

  
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     小 辺 路      
      
    平成26年11月12日 (水曜日)  曇り、晴れ      
        高野山 ~ 大股 (水ケ峰越)   
   
 ケーブル高野山駅からバスで千手院橋についたのは10時45分、高野山の空は雲が低くそして寒い、予報では午後から

晴れてくるらしい。

弘法大師、空海が開山した霊場、高野山は、弘仁7年(816)鎮護国家と仏教修行の道場として嵯峨天皇の勅許を受けて

以来1000有余年、真言宗総本山金剛峯寺をはじめとして、たくさんの堂宇が木々の間に軒を連ねている

一大宗教都市。

かつては女人の入山を禁止していた山上も現在では大きく門戸を開き、観光客でにぎわっている。

高野山真言宗の総本山、金剛峯寺は一山の宗務一切を司る中心の寺、檜皮葺の大屋根に防火用水桶が乗っている。

金剛峯寺の山門は建物の中で一番古く1593年(文禄2年)に再建されたもの、昔はこの門を正面から出入りできるのは

天皇、皇族、当山の重職に限られていた、今でも一般の僧侶は右の小さな入口を使用している。 

 豊臣秀吉が母の追善のために建てた寺をはじめとする青巌寺と興山寺が明治初年に合併して金剛峯寺と改称し現在に

至っている。 狩野派の豪華な襖絵をたくさん伝えているほか、関白、秀次切腹の間など公開されている。

                                    ・・・・・・・・門前の説明版による

山内を見て回るだけで1日かかってしまうので金剛峯寺にだけお参りすることにし、真っ赤に色づいた、もみじに飾られた

山門をくぐってお参りする。  門前に散り敷いたもみじが鮮やかな模様を描いている。

金剛峯寺山門 金剛峯寺 もみじの模様
 
  
    金剛峯寺を出て、千手院前の食堂で早めの昼食をすませ、11時20分出発する。

高野山の空は雲に覆われている、朝方には一雨あったらしく道路が濡れている。 通りには多くの観光客が歩いている、

見ていると一日フリーパスのような切符を下げている人が多いようだ、外国人の姿も見える。

世界遺産になったことが大きいのだろうか、観光客で賑わう通りから金剛三昧院方向へ入る、とたんに人がいなくなる。

 金剛三昧院は鎌倉時代、北条政子が源頼朝の菩提のために創建したもの、頼朝の念持佛であった、愛染明王を本尊

とし、境内の建物は国宝、文化財も多く開山当時の面影を残している。

金剛三昧院の石柱のところで右に入り林道を登っていく、しばらく杉林の登りが続き、11時35分、ろくろ峠

(大滝女人堂あと)に出る。

ろくろ峠の大滝口女人堂跡は高野山内への入口に設けられた七つの女人堂の一つ、明治5年まで女人禁制で

あった高野山へは女性はここより先、山内に入ることができず、女人道を通って大師御廟へお参りした。

かつては山内に入る七つの入口にそれぞれ女人堂が建っていたが、今は不動坂に残る一つだけが当時の面影を

残している。

ろくろ峠からは平たんな地道の林道が続く、朝方の雨で道は緩んでいる、盛りを過ぎたとはいえ、周りの紅葉は鮮やか。

紅葉の山々を眺めながら林道を行き、12時、薄(すすき)峠に着く。

山の上は雲が 林道の紅葉 薄峠
  
      
   薄峠を左へ山道を下りてゆく、急な下り坂は階段になって、坂の途中に「くまの本宮より十七里」と刻まれた丁石が

立っている、急坂を下りていくと、コウヤマキの植林が現れ、坂を下りきって、12時30分、御殿川の鉄橋を渡る、

鉄橋の手前に紅葉が美しい。

川の水も澄みきっている、橋を渡るとまた急坂が待っていた。

さっき下りてきた分はそのまま登るのかと思うほどの坂が続く、ひんやりと感じていた空気もこの登りにきて、

汗が滴り落ちる。大滝集落への急坂を15分、12時45分大滝集落へ出る。 

何軒の家があるのだろう、街道から見えるのは4軒、道を曲がった先にも集落が広がっているのだろうか?

休憩所が設けられているのでちょっと休んでいた、近くの民家から顔を出した住人と挨拶を交わす、ここの川からの

登りが一番きつい、これからはそんなでもないから頑張ってと励まされる。

少し休んで12時50分に出発、大滝を後にする。

本宮から十七里の丁石 橋手前のもみじ 大滝集落を左へ上る
  
      
    先ほどの住人が顔を出した家の前を通って杉林の細道となる。 なだらかな上りを行くとやがて林道となり、1時20分、

高野龍神スカイライン(国道371号)に合流する、この道を南へ歩く。 少し歩いて野迫川村(北股方面)への分岐を過ぎる。

出発時曇っていた空からはいつの間にか日が差している、国道なので車の通行もある、(この先小辺路歩行者あり)

の標識が立っている。 国道が奈良・和歌山の県境になっていて紅葉に囲まれた県境を歩いている。

国道を20分歩いて1時40分、水ケ峰分岐から左へ国道を離れて古道は登っていく、分岐にイラスト案内板が立っている。

クマに注意の看板にちょっといやな気持になる、冬眠を控えたクマが餌を探しに現れるかもしれない、

出会ったら死んだふりをするか、それとも逃げるか、睨み合いをするか、と埒もないことを考えながら、

スカイラインを右下にきつい登りを上り杉林の中に入っていくと、水ケ峰集落跡に出る、道に銀杏の葉が

散り敷いている。

高野龍神スカイライン スカイラインの紅葉 水ケ峰跡
  
      
   杉林の平坦な道を進んで、2時5分、林道タイノ原線に出る、明るい舗装された林道を進むと左手に谷間の集落と

(北股らしい)荒神岳の眺望が広がる。 見晴のいい道は緩やかに下って2時25分、休憩所となっている東屋に到着、

少し休憩をする。

そのまま林道を進むと、林道開通記念碑が立っている、平成10年4月と刻まれている。 

その先、今西の辻で林道から階段を下りて山道に入る、少し下ってまた林道に合流、西日に照らされた林がまぶしい。

2時50分、平の辻に来る、林道との分岐点に道標地蔵が佇んでいる、ここは屋敷の跡らしく少し広い場所になっている。

林道からの眺望 紅葉の中を行く 平の辻の地蔵様
  
      
    平の辻からまた山道となり、美しいコナラの林を行く、この感じは何とも言えない、ひらひら舞い落ちる葉、

散り敷いた落ち葉日を受けて輝くもみじ。

3時15分、またまた林道に合流、3時20分、本日お世話になる津田旅館の案内看板が出ている林道の分岐点に到着する。

ここから左へ山道に入り、約20分急な下りが続く、なだらかな林道を歩いてきたのと足の疲れとで特にきつく感じる。

宿も近いと思えばまた元気も出てくる、坂の最後の階段を下りきって大股の集落に出ると一段と紅葉が見事、

澄んだ流れの上にかかるもみじが輝いている。

谷底を流れる川に沿った斜面に数軒の家が見える、谷間の集落はもう日差しが途切れている、

4時前に津田旅館に到着する。

紅葉の林 大股の紅葉 大股

  
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    平成26年11月13日 (木曜日)  曇り ~ 晴れ   
     大股 ~ 三浦口 (伯母子峠越)   
    
夕べはゆっくりと休むことができた、今朝は早立ちの人がいるらしく5時ころから物音がしている。

窓の外はまだ暗くて見えないが雨の音がしている、朝食は7時からということなので、あと2時間のうちに止んでくれる

ことを願ってまたうとうととしていた。6時に起きて準備をしながら天気予報を見ていると、午前中は雲が多いいが、

昼からは晴れてくると、奈良県の天気を伝えている。

今朝は全国的に気温が低いようで12月頃の寒さとか、寒波がこのあたりにも南下しているようだ。

7時から朝食を済ませ、出発の準備を整える。  部屋の窓から煙った景色が見えている、雨は止んだようだ、山の斜面を

彩る紅葉を目と心に刻み込んで、7時45分、旅館を出発する。

「小辺路」と標した赤い道標に従って、大股集落の急坂を上る、集落を見下ろす墓地を過ぎて九十九折れの道が続く。

紅葉の雑木林を過ぎ杉林になる。 急坂を上っているので寒さと、汗が相殺されてちょうどいい感じになっている。

しかし梢を渡る風がごうごうと木を揺らす音が聞こえる、深い森の中をひたすら上って8時25分、萱小屋跡に着く。

ここも多分昔の屋敷跡か、休憩所が設けられている。

宿のお母さんから昨夜の食事の時に、萱小屋までは上りがきついが、その後は楽になるからと聞いていた、ここで標高

1000m、大股は700mくらいなので300mを上ったわけだ。  しばし休憩。

大股の紅葉 上りが続く 萱小屋で
  
      
   
萱小屋を過ぎると道は少し緩やかになり、ブナやカエデの林を進む、尾根に出て谷を隔てて向こうに小さく家が

見えている。

平坦な道になり快調に進む、急な上りを上って9時5分、桧峠に到着、伯母子岳頂上まで1.5キロの道標が立っている。

尾根に出ると風が強く吹いている、このあたりの林はすっかり葉を落としている、風の中に雪が混じってきた。

夏虫山の表示を過ぎて9時30分、伯母子峠の分岐に出る、護摩壇山からの道と交差し古道は左へ伯母子峠に向かう、

直進すれば伯母子岳の頂上に0.6キロ。 まっすぐに伯母子岳に向かう、すっかり葉を落とした林の中を上っていく、

強い風の中に雪が舞ってくる。 雪交じりの風の中を20分、9時50分、伯母子岳の頂上に到着する。

雪交じりの風が強く吹く、枝の先には水滴が凍りついている、根本には吹きつけた雪がたまっている。

標高1344mの頂上は360度の展望が開けている、昨日通ってきた山や、護摩壇山、目を巡らせば果無山脈から

大峰の山々が谷の向こうに見えているのだが、天気が不順で峰には雲がかかっている、晴れていれば最高の展望が

楽しめるだろうと思った。 

この時また雪が舞ってきた、向こうの山には日が照っているのだが、山上は風を防ぐものが何もない。

桧峠 伯母子岳は直進 伯母子岳頂上

  
   
9時55分、頂上を後にして伯母子峠に向かって下りる、この下りも急、10時5分、伯母子峠に下りる。

ここには無人の山小屋があり素泊まり可能と、林道が続いているようで軽トラがとまっている。

峠からの下りは道幅が狭く30cmほどのところも、左へ足を滑らせば谷底まで落ちていきそうな感じ。

こちら側の林も葉はほとんど落ちて寒々とした白い林になっている、山の頂上で舞っていた雪はどこかに飛んで行き、

ここには日が照って、ふかふかのブナの落ち葉を踏んで歩く、山抜けの跡のような箇所もあるので十分注意しながらも

下りは足が進む。

誰がこんなところに道をつけたのかと思いながら道を下って10時40分、上西家跡に到着。

昭和の初めころまで旅籠があったという上西家跡は今も石垣と杉の古木が残っている、広い敷地にベンチがあり、

休憩所になっている。

  天和2年(1682)の熊野案内記に「かやごやよりうえにし迄2里、家有」と記されており、江戸時代初期には、

街道上の旅籠として存在していたものと考えられる。 地元の古老によると昭和9年(1934)頃まで人が住んでいた。

                            と、十津川村教育委員会の説明板が立っている。
伯母子峠 落ち葉の道 上西家跡
  
      
    
上西家跡から、又、急な尾根道を上る、ここには紅葉がまだ残っている。
 上れば、下るのがならいで急な坂を下って11時、

杉林に入って行く、三田谷橋(里へ下りたところ)へ5キロの道標を通過する。

杉林の道も狭いがさっきまでの転げ落ちそうな道とは違う、杉林が続いて左が崖の階段道を下りて、11時20分、

水ケ元茶屋跡に着く。 弘法大師像を祀った小さな祠が建っている。

上西家跡の先の紅葉  階段の古道 水ケ元茶屋跡の祠
  
      
   
急な下り坂が続いて11時35分三田谷橋まで2.9キロの道標を通過する、三田谷橋は、この古道の山道が県道へ

下りたところ伯母子岳への登山口。

林の道に日差しが差しこんでくる、11時55分、石畳の道になる、かなり古い石畳が続く、12時になり下の方から

チャイムの音が聞こえてくる、里がだいぶ近くなったらしい。

12時10分、待平(まちだいら)屋敷跡に着いた。

大塔宮、護良親王が十津川より都へ上る途中、ここで遅れた家臣を待ったので待平という・・・十津川村教育委員会の

説明板, ここで、旅館のお母さんが作ってくれた弁当にする。 このまま行けば昼過ぎに着いてしまう。

今朝から腰を下ろしてゆっくりしたのは初めて、杉林を通してくる光を受けて、おにぎり弁当をいただく。

これが道 石畳道 待平屋敷跡
  
      
    12時半、出発、里が近くなり九十九折れに急坂を下る、膝が痛くなるのでなないかと思うほどの坂、道標地蔵を過ぎて

1時、車道へ下りる、ここが三田谷橋、伯母子岳への登山口。

山の上が嘘のように日が照り、神能川の広い河原では砂利の採取か数台のダンプが走っている。

左へ車道を歩き五百瀬(いもせ)の集落に出る、道の右上民家の裏の小高いところに、平維盛の墓がある。

動物除けの柵を開けてお参りする。

平安時代末期の武将、平維盛は平清盛の孫、源平合戦の最中、屋島からのがれ高野山で出家し、熊野三山を参詣し

那智の沖に漕ぎ出して補陀洛渡海(入水自殺)したといわれている、享年27歳。

十津川村に残る伝承によれば「維盛は五百瀬に亡命し、その血統は代々小松性を名乗り、平家重代の宝刀、小鳥丸を伝え

屋敷は政所屋敷といった」とある。  この祠が維盛の墓と伝えられている・・・・・・教育委員会説明板

その100mほど先に「腰抜田の石碑」が立っている。

南北朝のころ、五百瀬を通過しようとした、大塔宮護良親王は五百瀬の荘司に行く手をさえぎられ、止む無く錦の御旗を

渡し通行を許された。 宮の一行に遅れた家来の村上彦四郎が荘司の館に錦の御旗があるのを見つけ、大いに怒り、

荘司の家来を水田に投げ飛ばした、投げ飛ばされた家来が腰を抜かしたのでその田を腰抜田というようになったという。

その田は明治22年の水害で流され川の底に眠っている。・・・・・・・・・・説明板

道を進んで1時40分、三浦口バス停に着く、三浦峠への登り口で道の左古い石の道標に

「これより本宮へ十り こうや八り」と刻まれている。

この先は明日の行程、早い到着になったが、宿に電話をし主人に迎えに来てもい、2時、民宿「山本」に着いた。

早い時間にも関わらず、民宿の中南さんに親切に迎えてもらい、早いうちから風呂に入り、おいしい夕食をいただいて

ゆっくりと休ませてもらった。

伯母子岳登山口 平維盛の墓 腰抜田の石碑
  
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    平成26年11月14日 (金曜日)  晴れ   
      三浦口 ~ 十津川温泉 (三浦峠越)   
   
 民宿の主人に送ってもらい、6時50分に三浦口バス停を出発する。

はるか上方に今から越える山の稜線が見えている、ここから三浦峠まで700mくらい上る。

12月頃の気温が続いているようで今朝も冷え込んでいる。

神納川にかかる吊り橋の船渡橋を渡り、左へ杉林に入って行く、少し上ると杉林が開け民家があり、棚田がある。

今は、寒々としているが田植えの終わった季節、実りのころにはきっと美しい風景が広がっているに違いない。

三浦口登山道の入り口 船渡橋 棚田
  
      
   
棚田を過ぎると石畳になり又、杉林に入って行く、急な坂を上がっていくと鬱蒼とした杉林の中にひときわ巨大な杉の

古木が並んでいる。 今時刻は7時15分。

 この巨大な杉の古木は防風林と思われ、幹回り4~8m、樹齢500年と推定される。

ここは吉村家の屋敷跡で旅籠を営んでおり昭和3年(1948)頃まで居住していたという。 

このあたりまでが往時の三浦の集落範囲と思われるが、北に伯母子峠、南に三浦峠をひかえた位置的条件から、

小規模ながら宿場的機能を果たしていたものと考えられる。・・・・・・十津川村教育委員会

石畳道 杉の古木、防風林 吉村家跡
  
      
   
  九十九折れに急坂を上る、7時50分、二十五丁石を通過、杉の中、急坂は続き上っていくと三十丁の水の立札が

立っている。 三十丁の水で一息つく、ここまで2.6キロ、1時間かかっている。

三十丁の水から5分上ったところに三十丁石と道標地蔵が立っている、森の中には小辺路の道標にまじって、地元小学校

の児童が作った、手書きの道標、注意喚起(ゴミ捨て)の立札がいくつか立っている、世界遺産熊野参詣道を大切にして

守っている子供たちの気持ちが伝わってくる。

上りは続く 三十丁の水 三十丁石と道標地蔵
  
      
   
 三十丁石からさらにジグザグの上り道を30分、杉林が途切れ前方が大きく開けてきた、杉を伐採した跡、その後、植林を

していない箇所、右下数百メートルに出発した三浦口が見えている、真下に見えているのは九十九折れに真直ぐに上って

きたからか。

出発して1時間35分、ここが山の頂上ですと地元小学校児童による手書きの立札に迎えられて、8時25分三浦峠に到着。

前方が開けてくる 下は三浦口 ここが山の頂上です
  
      
    
 頂上には林道が上ってきており古道と交差している、休憩所になっていて案内板が立っている。

休憩所でリュックを肩からおろして一休み。  休憩所の横に十津川村と新十津川村の記念植樹があり、関係者の名を

記した杭がそばに立っている。

明治22年の水害で壊滅的な被害を受けた十津川村から村民が北海道へ移住し、新十津川村を開拓した。

新十津川の人たちは十津川村を母村として、今でも交流が続いているという。

頂上の休憩所でしばらく休んで8時35分、十津川温泉に向かって峠を出発。


下から700m 林道と交差 案内板
  
      
   
 林道を横断して杉林の平坦な道を行く、西中バス停まで7.4キロの表示(西中は三浦峠から山道を下りて国道に

出たところ)杉林はすぐに抜けて雑木林の道になり、下りになる。


狭い道幅、山崩れの跡のような箇所も見受けられる落ち葉をガサガサ踏みながら快調に下って行く。

8時45分、古矢倉跡を通過、十津川村教育委員会の説明板によると、古矢倉という屋号の茶店兼旅籠があったが、

昭和10年に廃屋なった。屋敷跡の西側に天保10年と記された地蔵菩薩像があり、当時の戸数は1軒。

ところどころ急な坂もあるが、おおむね緩やかな下りが続く、残り少ない紅葉がひときわ美しく輝く。

雑木林の下り 天保10年の地蔵菩薩像 古矢倉屋敷跡
  
      
   
 下りが続き9時5分、出店跡に着く、かつては茶店、旅籠があったが、明治43年(1910)に廃屋になった。

この周辺には水田が何枚もあって、昭和20年代の末頃まで釜中(今西の小字)の人たちが遠方から水路を引いて耕作した

といわれ、ゆたかな田園風景だったという ・・・・・・・ 十津川村教育委員会

出店跡の先で古道は尾根道になりほぼ平坦となる、道の左手下(東)に今西の集落を望んで足は快ピッチ、右手道の上に

小さな五輪塔が立っている、今時刻は9時半。

片方が崖のような箇所もあるが、注意しながら進み9時55分、矢倉観音堂に着き一服する。

十津川村教育委員会の説明板によると

堂内には如意輪観音、地蔵菩薩、観音菩薩の三体の石仏が安置されている。台石には「大坂天満市場 山家屋 彌兵衛」

と刻まれている。 また観音菩薩立像には、享保10年(1725)の銘がみられる。  旧正月1月18日に地元集落でお祭りを

している。

出店跡、水田だった 尾根の道 矢倉観音堂
  
      
   
 もう里は近い、10時5分、廃屋となった民家の前を道標に沿って右へ下りて行く、林の間から車道がみえる。

10時15分、林道へ出る、2~3軒の民家が見える、犬が吠えている、林道を左へ少し歩きまた山道に入る、再び林道に出て

左へ50m、階段をおりて地道になる、10時30分、国道425号に下りた。

三浦峠からの下りは7.4キロと距離は長かったが比較的なだらかな道で快適に下ることができた。

10時33分、西中バス停を過ぎる。  それにしても、思っていたよりもかなり早い時間で山道を通過し里へ出た。

里は近い 廃屋の前を 車道に出る
  
      
   
 ここから十津川温泉までは国道425号を7.3キロ歩く、平坦な舗装道路はかえって足が疲れるというが、この道も

2時間かけてまだ時刻は早いしゆっくりと歩こうと足を向けた。

山中と違って集落が断続的に続き民家があるのは心丈夫、10時50分、玉垣内の集落を通過、左手の菅原道真を祀った

川合神社にお参りする、いかにも集落のお宮さんといった感じ。

平坦な国道は少しづつ下って行く、道の右を流れる西川に沿って中腹を道は十津川温泉へと続いている。

左の山から滝が流れ落ちている、国道といっても自動車はたまに行き交う程度、永井、重里と集落を過ぎる。

12時、真砂瀬バス停を通過、昼食の弁当をどこで食べようかと考えているうちに十津川温泉はすぐ近くに迫ってきた。

昴の郷(ホテル・温泉施設)を通過する、ここには車も止まっていて人影も見えている。

国道425号を十津川へ 道路左ての滝 右下には西川

  
   
 12時15分、柳本橋に着く、西川に架かった、長さ49m、高さ、10mの吊り橋、この橋を渡る、川のうえは風もあり揺れる

中ほどに行くほど揺れは強くなる、思わず手すりに摑まる、歩調に合わせて揺れる橋を渡って民家の軒先を通ってゆくと

果無峠への登山口がある、ここからは明日歩くところ。

前方には赤い柳本橋(これは国道168号・新宮方面)の向こうに十津川温泉の町が見えている、橋の下はダム湖、

(二津野ダム)国道に出る手前に案内板と向井去来の句碑が立っている。

12時40分、今日の宿、松乃家についてしまった、荷物だけでも下ろさせてもらおうと思って玄関を入ると、

思わずの早着に宿の女将さんも驚いていたが、部屋に入って休んでもいいよと言ってくれた。

夕方までお構いできないが、風呂も温泉なのでいつでも入って構わないとのこと、まだ食べていなかった昼の弁当

をここでいただくことにした。

部屋からは、先ほど通った赤い柳本橋、ダム湖、山の上に果無集落のあたりが見えている。

吊り橋を通る 国道柳本橋 部屋から

  
      
   
 昼を食べて少し休んでいた、今日の行程は終わってしまったし時間は早いしと考えていたが、明日の果無峠越えには

33体の観音地蔵が祀られているが、31番から33番までは、小辺路から離れたところにあるというので、それを見ておこう

と思って、1時半に部屋を出た。 国道168号の櫟砂古(いちざこ)バス停の上に33番観音がある、そこから杉林を上って

いくと32番、さらにかなり上って31番と3体の観音地蔵に出会った、この上りはかなり急、今日の行程を終えたので

いつでも引き返せばいいと思って気楽に歩いていると、31番から少し上って果無集落に出た。

明日通る道だが、今日は違うルートで上ってきたし、明日はこのあたりを通るのは朝早い時間になるので、今日のうちに

見学しておこうと考えて集落に入って行った。

おなじみの光景が広がっていたが、これは明日、集落から下りてもまだ時間が早いので、野猿を見に行くことにした。

両岸に張ったワイヤーロープに屋形を取り付けた乗り物、野猿、十津川独特のもので、ぜひ経験しておきたいと思った。

乗ってロープを手繰る、意外と軽く動く、観光客の人も何人か姿が見える。

歩いて宿に帰り、屋上の貸切露天風呂につかり今日の汗をながした、まだ時刻は4時前、明日は早い出発になるので

今夜は早く休むことにする。


32番観音石像 果無集落 野猿
  
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    平成26年11月15日 (土曜日)   晴れ   
       十津川温泉 ~ 本宮大社 (果無峠越)   
   
 小辺路の旅も最終日になった、本宮にお参りし今日は家に帰る予定、そのため朝早い出発になった。

12時までに本宮に着きたい、12時17分のバスに乗って紀伊田辺まで2時間かかる、そんなことを考えて、昨夜食事時に

明日12時までに本宮に着けるだろうか、と相談したところ、普通ならちょっと無理かなと思うけど、お客さんの昨日の

到着時間や、ここに来てからさらに果無までの往復、野猿に乗りに行ったことなどを考えると、早めに出れば大丈夫

朝食も弁当を作っておくからといってもらった、そんな経過もあって今朝は食事もせずに6時半の出発となった。

今朝は一段と寒い、6時35分、果無峠登山口の大きな道標の示す方へ石段を上って行く、すぐ杉林の中に入り、急な

石畳の上りになる。

朝、まだ日が昇っていないので少し薄暗い感じ、杉林をとおして左下方向に十津川の上空には雲がかかっているのが

見える。

杉林を抜けると明るく開けた場所にベンチがあり十津川温泉方面が見下ろせる。



果無峠登山口 果無集落への道 十津川温泉には雲が
  
      
   
 石畳道を上り始めて30分、7時5分、果無集落に到着した。

古道は民家の庭先を通っていく、庭の水船には水仙が何けなく挿してある、雨戸はまだ閉まったまま、昨日の午後に来た

ときは開いていたが、そこを通り抜け石段を上がり、畑の間の石畳を行くと車道に出る手前に、世界遺産の大きな石碑が

立ち、ポスターや映像でおなじみの風景が広がってくる。

標高は400mくらい、尾根に昔、茶屋を営んでいたという数軒の集落がある、林道を横断した先に30番観音石像が立って、

又、ここから石畳を少し上り、民家の庭を通って林道に出ると、大きい、果無峠登山口道標が立ちその上に29番観音石像が

ある。 集落を後に山道に入り果無峠への上りとなる。  時刻は7時25分。


古道は民家の庭を 世界遺産の石碑 果無集落を行く
  
      
   
 ここから果無峠への小辺路には西国三十三カ所霊場に倣った33体の観音石仏が祀られている。

設置されたのは意外と新しく大正年間に十津川や本宮の人々の寄付によって作られ、青岸渡寺の住職による魂入れを

行って、十津川の櫟砂古(いちざこ)から本宮側の八木尾まで祀られている。 33番から29番まではすでに見てきた。

急な上りを上ってゆくと、次々に観音石仏が迎えてくれる。  7時40分、急に開けて広い場所に出た、天水田の立札が

立っている。 説明板には、かつての水田跡で、ここから約300m峠よりにあった「山口茶屋」の住人が、雨水だけを

頼りに耕作したといわれている。 水田はこのあたりに数枚あったと記されている。


ちょうど山の端に太陽が昇ってきてここまで差してきた、今朝の食事はまだなので、ここで宿で作ってもらった

弁当を開いた。    前方に果無の山々が見える。



25番観音 天水田跡 林の上り道
  
      
   
 7時40分から7時55分まで休んで出発した、明るい雑木林の道を上って8時5分、山口茶屋跡を過ぎる。

東面に石垣が残り、防風林と思われる杉の巨木が数本残っている、少し上に第24番地蔵菩薩が古道を見守っている。

山口茶後から坂を上りきったところで眺望が開け22番観音からまた、急な上りの階段が続く、8時25分、果無観音堂に

着いた。


日差し受けて上る 山口茶屋跡 23番観音
  
      
   
 この観音堂には果無峠越えで唯一の水場があり冷たい水が流れ出ている、喉を潤し少し休憩。

観音堂には三体の観音像が安置されており旅人の通行の安全を祈願したもの。 毎年旧暦3月18日の礼祭日には

地元の人々によって供養が続けられている。 ・・・・・十津川村教育委員会

観音堂を過ぎて、又、急な上りの階段になる、釈迦ケ岳方面が一望できる、上りがなお急になり19番、18番と観音石仏を

過ぎて、8時50分、ついに果無峠に到着した。


果無観音堂 20番観音 釈迦が岳方面の眺望
 
  
      
   
 1147mの果無峠の頂上は、残念ながら眺望はきかない、上部が少し欠けた宝篋印塔が残り、

17番観音石仏が祀られている。

小辺路に立ちはだかる1000mを超える三つの峠、伯母子峠(1246m)、三浦峠(1080m)、果無峠(1114m)を越えた。

今時刻は8時55分、12時までの本宮到着が見えてきた、あとは本宮に向かって下るだけ、八木尾まで5.3キロの表示が

出ている。


果無峠頂上 宝篋印塔
  
      
   
 峠からの下りは落ち葉を踏みしめながら足も軽く下って行く、足元の悪いところや、急なところもあるので注意し

ながら下る急な下りが続いて、左上に六字名号碑は立っている、ちょっとした広場になった花折茶屋跡を過ぎる、

林の間に熊野川の流れが見えて来た、本宮が近づいているのを感じる。  二十丁石が道の脇に置かれている。

石が積まれた急な階段状の道を下りて行く、13番、12番と観音石仏を通過する。

9時30分、前方、光の中に本宮町が見えてくる。

次々に現れる観音石仏に出会いながら急坂を下りてゆくと左下に県境の集落、七色集落が見えてきた。

道が尾根に出て平になる、七色分岐を9時45分に通過、順調、順調、下りがきつくなった途中に5番観音を過ぎる。

感心するのはこの山中の石仏に、花やみかんなどが、それぞれに供えられていること、山道を上るのは大変なこと

だろうと思うのだが。

丸太で土止めをした階段になって3番観音石仏をすぎ、集落へ出た。  舗装道路となって民家の庭先を通って

石段を下り、10時15分、国道へ下りて八木尾バス停に着く、八木尾橋から振り返れば下りてきた果無の山脈が見える。


峠からの下り 熊野川が見える 前方に本宮の町

  
      
   
 八木尾から本宮まで後、4.6キロ、予定の時間に到着できそうだ、ここからはしばらく国道を歩く、10時43分、平岩口で

国道から右へ緩やかに上って行く、そして10時55分、中辺路との合流点、三軒茶屋跡に着いた。

ここからは、9月に歩いた道と同じ道を本宮に向かう、まだ上りもあり下りもあるが、初めて歩いた時とは違って、今日は

同じ道を短く感じた、そして11時20分、熊野本宮大社に到着し本宮に参拝を済ませた。

きょうは土曜日ここには相変わらずツアーの観光客が行きかっていた。

余裕をもって予定のバスに乗車、中辺路の国道を通って紀伊田辺に2時に到着、特急くろしおで新大阪に向かい、9時に

無事帰り着いた。

4日間、雨に会わなかったこと、足の故障もなく歩けたこと、途中の宿でお世話になった方々に感謝。        完


国道八木尾バス停 中辺路合流点 本宮大社

  
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     大 辺 路     
       
       
   平成27年5月13日 (水曜日)   晴れ    
      田辺北新町道標 ~ 安居(あご)の渡し場跡    
     
 台風6号は12日午後、温帯低気圧となって関東近海を通過していったが、午後7時ころから猛烈な雨となった。 

たたきつける雨の中、横浜駅を午後10時過ぎに出発した高速バスは、翌朝7時半、晴れ上がった紀伊田辺駅に着いた。

駅から5分、北新町商店街に道分け石が立っている。 西面に 「左 くまの道 すくハ大へち」 北面に 

「右 きみゐ寺」 ここが中辺路と大辺路の分岐点でこの道標は安政4年(1857)に建てられたもの。

大阪、和歌山方面から来て中辺路から本宮を目指す旅人はここを左へ、大辺路から那智、新宮、本宮にお参りする人は

まっすぐに進んだ。

商店街もまだ閉まっている、駅に向かう人が通って行く、8時に道分け石をスタートする。



田辺駅前の弁慶像 北新町道標 朝の商店街
   
     
 出発してすぐに右手の蟻通神社にお参りし今回の旅の安全を祈願する。

安政元年冬の大地震の火災が北新町から湊地区に燃え移らんとしたとき、この神社の樟から白水が噴出し食い止めた

という言われが説明されている。  

駅前通りに来ると、通学の高校生が多くなってきた、前回の中辺路の旅でもお参りした、闘鶏神社に8時20分に着き参拝。

闘鶏神社を出ると多くの中学生、高校生と出会う、老いたるわが身と比べ若者は溌剌としていて気持ちがいい。

二ツ池大橋を渡って県道31号を歩く、途中少し残る旧道を拾いながら、9時、名喜里の交差点を左折して名喜里川沿いに

少し行くと、JAの手前に南海大地震潮位跡碑が立っている。

そばの小橋を渡り名喜里の集落を進むと左手に大潟神社が見える。 小高い丘になっていて境内に宝永津波の碑があり

津波到達点は13m80となっている。


蟻通神社の霊樟 南海大地震潮位跡碑
上部の線が潮位跡
大潟神社
   
    
 神社の鳥居の前を右に行き馬道と呼ばれる坂道を上り国道42号を跨線橋で渡り、竹林を抜けて舗装道路にでて右折、

しばらく進んで9時半、新庄峠の分岐点に着く。 新庄峠の付近はこの時期草が生い茂っている、峠を過ぎると左石段の

上に高地蔵が祀られている、高地蔵から下って行くと国道に出る、国道を歩き朝来駅を過ぎる、岩崎の交差点から

富田川沿いに進む、幹線道路なので車両の交通量が多い。 日は照りつけていて暑さを感じる、川から吹く風は心地いい。

郵便橋を過ぎ富田川右岸を歩く白鷺橋から左岸にわたる。

川沿いに国道を歩いていくと日神社に出た。 時刻は11時50分。

大潟神社前の馬道 新庄峠登り口 富田橋
   
   
 もう白浜町に入っている、日神社は平安時代(1167)に創建され富田十二ケ村の産土神として、現在の宮司は藤原範秀の

32代の孫にあたる、本殿には伊勢神宮の御分霊をお祀りし、稲荷、住吉、厳島神社などが祀られている。

神社を後にJR紀伊富田駅方面へ行く富田橋を過ぎて石経の集落を通り、飛鳥橋を渡ったところの臨済宗東福寺派の禅寺

草堂寺にお参りする。 丸山応挙門下の長沢蘆雪の絵があるという。

寺の右手から世界遺産に指定された富田坂への登りが始まる

日神社 草堂寺 富田坂登り口の表示
   
   
 草堂寺の石垣に沿って左へ、竹林の道を10分ほど登ると12時15分、一里松跡に着いた、富田坂の案内板が立っている。

ここで途中のコンビニで買ったおにぎりで昼食にする、15分ほど休み12時30分出発、すぐに馬谷城跡の案内板を通過、

道は林道に出て緩やかに上りが続く、林を漏れてくる日差しがやわらかく降り注いでいる、林でさえずる鶯の声がすぐそば

に聞こえる、今日の鶯は特別近くでサービスしてくれている。

林道は20分ほどで終点になり七曲りと呼ばれる九十九折れの急な坂道にさしかかる、汗をふきふき林の中を登って

1時10分、右手遠くに白浜空港方面の景色が広がる稜線に出てここで一休み息を入れ少し気持ちを取り戻す。


一里松跡 七曲りの登り口 白浜空港方面の眺望
   
   
  一呼吸の後も上りは続き1時35分、峠の茶屋跡に着く、富田坂の茶屋跡は大辺路を歩いた文人の残した紀行文などで

その存在は確認できるが、常設の茶屋としては幕末から大正8年ころまで営業していたという。明治25年に陸奥宗光が

猪狩りをしたときに休憩したらしい、難路の七曲りを越えた旅人にとってこの茶屋は何よりの癒しの場になったであろう

・・・・・・説明板

茶屋跡からは割合なだらかなアップダウンを繰り返し1時50分、安居(あご)辻松峠に着く、ここは旧白浜町と旧日置川町の

境にあたり、昔は道の両側に塚が築かれ松が植えられていた、一里塚跡で和歌山より23里(92キロ)。

山裾に舟形光背の地蔵が祀られている、その台座には(安居村)と彫られている。


峠の茶屋跡 途中の道標 安居辻松峠

   
   
5分休んで出発、峠からもなお上りが続いてちょうど2時に林道との合流点に着く、大辺路街道の道標の横に歌碑(木製)

が倒れている、 (あまつ日は日高の沖にかげろひて)  見通しはよくないが木々の間から海が見える。

ここからは下りとなり整備された林道を下りてゆく、急な下りが続く2時40分、祝の滝の分岐に出る、滝までは15分の登り

となるので寄らずに先へ進む。


遠くに海を臨む 峠からの下り 峠からの下り
   
   
 道は平坦になり三ヶ川沿いに進む、暑い日差しがそそいでいるが涼風が吹き、特に林の中では格別の涼しさ。

林道を40分歩き途中、三ヶ川梵字塔や庚申塔を過ぎ3時20分、三ヶ川バス停を通過し安居(あご)の集落に入る。

田植えの終わった田と準備中の田んぼがあり、植えたばかりの田面をなでる風はやさしい。

小学生が下校してくる、集落の三須和神社にお参りしていると、3年生くらいの男児が登山ですか? と聞いてくる。

熊野古道を歩いていて、今日はこの先の安居(あご)の渡し場跡まで行くと話すと、このまま県道を渡ってまっすぐ行くと

堤防のところに渡し場跡があると教えてくれる。 教えられたとおりに進み3時40分、日置川の安居の渡し場跡に到着。

大きく「安居の渡し場跡」の表示が出ているが、柵が締め切られており立ち入りはできない。

この渡しは予約受付になっているので渡しの客がないときは締め切ってある、明日は朝7時に予約している。

今日泊まる民宿に電話し迎えの車で4時に着く、汗をふきふきの行程であったが、富田坂は往時の雰囲気も残り時折

見通せる太平洋の景色や鶯の声、林の中を通る風を感じて、ほぼ30キロを歩き気持ちのいい汗をかいた。


途中の滝 田植えの終わった田(安居) 街道風景(安居)

日置川(安居の渡し場) 安居の渡し場

   
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   平成27年5月14日 (木曜日)    晴れ     
     安居(あご)の渡し場跡 ~ 田子    
   
 朝から晴れて前方の山がきれいに見える、今日は仏坂、長井坂と二カ所の峠越えが待っている、民宿の主人に送って

もらい7時に安居の渡し場跡に着いた。 渡し場には既に船頭が二人準備を整えて待っていてくれる。

この渡し船を利用するには予約が必要、事前に14日、7時の予約をしておいた、ただ台風6号の襲来で上流のダムの

放流をしたため水量が増えており渡れるかちょっと心配したが、放流は終わっているので問題ないとのこと。

7時5分、日置川安居の渡しの通行手形を受け取り、渡し船に乗って日置川を渡る、ほんの2~3分で対岸へ渡り、

仏坂の登り口に着く、気を付けて行ってらっしゃいとの声に送られて舟を下りる。

安居の渡しは昭和29年に廃止されたが、平成17年に地元の人々の手によって「大辺路安居の渡し保存会」が結成され

昔ながらの渡し船が復活し当時の風情を伝えている。



安居(あご)の渡し 安居(あご)の渡し通行手形

   
   
 舟を下りたところが仏坂の登り口、杉林の中につづら折れの急な登り坂が続いている、林を透かして渡し場が

見えている舟はもう向こうへ帰ってしまった。 杉林を登って思いのほか早く7時30分に桂松跡に着く、この峠には

江戸時代かつら松と呼ばれた一里塚の松があった、和歌山より25里(約100キロ)の地点。 

ここから5分ほど歩いて仏坂の茶屋跡に到着。

江戸時代紀州藩主などが通行する際、臨時に茶屋が設けられ、また明治期になり人々の通行が多くなって

、常設の茶屋が昭和13年ころまで営まれていたという。  茶屋跡を過ぎて7時35分、舗装された林道に出る。


仏坂杉林の登り 桂松跡 仏坂茶屋跡
   
   
 林道を横断して向側の階段を登る、上まで上がると平坦な杉林の道が続いている。 歩きやすい道が続いている

、途中で前方に周参見の海が見えてくる。 時刻は7時52分、下り道となって急な滑りやすい道が続く、

転ばぬよう気を付けて下って行く。 よほど下りた所に江戸時代に祀られた不動尊がある、

台座は「文久2年(1862)3月」となっているが、石像は「願主 周参見浦 明治38年(1905)6月吉日」となっているので

風雨によって摩耗して取り替えられたものらしい。

そして8時35分、仏坂の東登り口に出る、ここは今年3月、BSで放送している「こころ旅」で俳優の火野正平さんが

途中休憩していた場所、太間川の入谷橋を渡ったところ。

 この先の地主神社にお参りする、社殿はなく石積みの祭壇を築いただけの自然崇拝の形を残した神社。


周参見の海が見える 仏坂東口 地主神社
   
   
 入谷橋を渡って舗装された県道22号を周参見へ向かって歩く、道は平坦になって右手をJRの水色の電車が

過ぎていく。

田植えの終わった田を見つついくつかの集落を過ぎ9時25分、周参見王子神社に着き参拝する。

歴史民俗資料館が併設されているが開館日は土、日となっている、少し水の休憩をとり出発、周参見川にかかる

遠見橋を渡って、小学校、役場、銀行、郵便局が並ぶ町の中心部を抜ける、小学校の塀に周参見代官所、

奉行所所在地跡の表示と説明が出ている。 JR周参見駅を通過して9時45分、国道に合流小さな坂を越すと

前方に海が広がり右手に近大水産研究所が見えてくる、あの近大マグロを研究開発した施設か?


周参見王子神社 周参見の街道 海に出る
   
   
 海を眺めながら水分を取り海沿いの国道を南下、10分で国道左にある生コン工場の敷地を通って10時5分、

馬転坂登り口の階段を上がって山道に入る。 

15分ほどで頂上を過ぎ海の展望が大きく広がる、観音像が海をみて立っている。

10時35分国道42号に下りる、すぐに長井坂の案内板がありその先の小さい橋を渡って左へJRの線路と田んぼに沿って

舗装された道を緩やかに上ってゆく、タオの峠の登り口の表示に沿って林の中へ入って行く。

10時57分、タオの峠に着く、峠を過ぎ林の中を行くと一里塚松の跡を過ぎて舗装道路に出た、右手後方には廃校になった

小学校跡、トンネルをでたJR線が右手その間に田植えの終わった田んぼ、のどかな和深川の集落を進む。

11時15分和深川王子神社に到着し、神社に参拝、ちょっと休憩を取る。


海沿いの国道を行く 馬転坂 頂上から

JR線と田んぼと並行して タオの峠 JRきのくに線
                       
   
   
 今このあたりは和歌山自動車道の工事中で、、あちこちに工事の現場が見える、和深川の集落を歩き11時35分、

長井坂西登り口から杉林の登りに入る、最初は急な登り20分ほど登ると木々の間から枯木灘を望む緩やかな道に

なる11時55分、道の駅への分岐を過ぎる。 鶯や野鳥の声を聞きながら、木々のトンネルや落ち葉で敷きつめられた

道を進み12時、段築の説明板にさしかかる、 段築というのは分水嶺となる丘陵部を土手状に成型し古道平面の

レベルを一定に保ち降水による土砂の流出を防いで通行をスムーズにしたものと考えられている・・・・・説明板による

長井坂には途中には2カ所わたって段築が構築されている、土手のうえを歩くような感じで段築の上を歩く。

右手には沖の黒島、陸の黒島方面が見下ろせる。 12時30分になったところで遠く潮岬が見下ろせる場所にきたので

昼食休みを取る。


枯木灘方面 土手状の段築 沖の黒島、陸の黒島方面
   
   
 はるかに海を見下ろしながら昼食休憩を済ませ12時45分に出発、やがて見老津側への下りとなり傾斜のきつい道

になる、12時55分、県道に出る、今は電話中継アンテナが立っているが「茶屋の段」跡で江戸時代からの道標が立ち

「みぎハやまみち ひだりハくまのみち」と書かれている。

県道からすぐに右へ急傾斜の下りを見老津へと下り1時10分、長井坂東登り口へ出てベンチでしばし息を整える。


1時20分、国道に合流しJR見老津駅を過ぎる、線路、国道そしてすぐ海岸、国道はさすがに通過車両が多い、しばらく

国道が続く。


遠く潮岬方面 長井坂東登り口 見老津の海岸
   
   
 国道は日差しをまともに受けて道の照り返しもありやはり暑い、ただ海からの風に助けられる、1時45分、国道から右へ

日本童謡の園、エビとカニの水族館の入口から江須之川方向へ入り海岸に出る。 振り返ると暖地性植物が茂る江須崎

が見えている、国道に出たり旧道を通ったりして2時5分、江住中学前を通過、江住の旧道をすぎて2時35分、照りつける

日差しの中、国道に出て進む、中平見の集落を通って3時、国道から右へ細い道を通って里野浦に出る。

大きな魚が飛び跳ねている、なんという魚か? かなり大きいなかなかカメラで捉えられないがとりあえず写してみる、

国道や舗装道路ばかり歩いているとこのような海岸はなんと気持ちのいいことか、海岸を少し歩いて国道に戻る。


日本童謡の園入口 江須崎 里野浦
   
    
 国道を進んで3時25分串本町に入る少し行くとようこそ串本町への看板があり、その少し進んだところに潮岬21.7K

橋杭岩20.7キロの表示が出ている。 うーん、潮岬が近づいてきたか、潮岬といえば本州最南端なんとなくロマンを

感じる。  国道から左へ雨島の木の本神社をすぎて細い道から国道に合流、道の右手に続く岩礁は熊野枯木灘海岸

県立自然公園に指定されている、波に浸食された海岸が美しい。 

さらに進むと海際に赤い小さい鳥居があり金毘羅様が祀られていた。

 JRをくぐって旧道に入り4時5分、和深駅を過ぎる和深トンネル手前を左に入り旧道を横断して船並港へ下る。

、すぐに道標に従い坂を上る4時半再び国道に出て安指平見のバス停から左へ安指平見一里塚跡を過ぎてまた、

国道を歩き田子駅に着いたのがちょうど5時、今日の民宿久美屋へ向かう、駅から5分ほど道を挟んで海に面した

気持ちのいい宿。

午前中は山道、坂道、林の中が多く日陰が多かったが、午後は一転日差しの強い国道で暑かったしかし海沿いの道で

海から吹く風が気持ちよく楽しく歩くことができた。

部屋に入ると前方に双島が見え遠くには潮岬が見える、夜には潮岬の灯台の光が回っていた。


ようこそ串本町へ 木本神社 枯木灘

海辺の金毘羅様 宿の前の海 双島
 
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    平成27年5月15日 (金曜日)  曇りのち晴れ    
      田子 ~ 紀伊浦神    
    
 昨夜はゆっくり休み朝7時に民宿をでる、今日は曇りの予報となっている午後からは晴れるらしい。

 昨日までは曇り一時雨の予報が出ており今日は雨を覚悟していたので大いに気をよくしての出発。

今日の予定は田子から串本、姫、古座川、田原まで30.7Kの予定。 国道42号に出て海沿いに歩いてゆく、

まだ薄曇りの空だが日がさしてきそうな感じ雨の心配はなさそうで、気持ちのいい海からの風を受けて進む。

国道脇には閉鎖になったドライブインの建物、道が大きく湾曲して江田地区に入る、左にある徳大明神にお参りする。

右手遠くに潮岬が見えている、7時30分、江田の浦を過ぎる。


部屋の窓から 枯木灘の双島 潮岬(江田から)
   
    
 江田の浦を大きく回り込んで道は上り坂となり7時40分、野凪(のうなぎ)バス停を通過前方右手は田の崎の小さい半島

7時55分、田並で国道から離れ田並橋を渡って進む、8時5分田並の大辺路街道の説明板と道標が谷底方面を指している。

道標通りに谷に下りてゆく、谷底にはわずかな区間古道が残り石畳も残されている、谷を上り林のなかを登ると

田並と有田の境界標柱が立っており旧有田村と旧田並村の境界であった「東 有田浦 西 田並浦」と彫られている。

舗装道路に合流して有田の浦へと入るここで時刻は8時25分。

大辺路街道説明板 石畳道 境目石
   
    
 有田の集落を通過し国道に出たところに徳本上人名号塔が立っている、薄日が差してきた。 

逢坂山トンネル手前を左に入り逢坂峠を越え8時40分国道に出る、道の途中に北向地蔵が祀られていた。

国道に出てすぐ串本海中公園に着く、9時前でまだ閉鎖中、公園の入口右の植え込みのなかに澤心坊の

道標が立っている。

「右ハわかやま 左ハいそみち」 説明文によると1727年にほぼ現在の位置に立てられたもので当時の

大辺路街道の道しるべとして串本町に残る最古のもの、時刻は8時45分。


逢坂峠 串本海中公園、開園前 澤心坊の道標
   
    
 国道を進むと高浜トンネルがありトンネルの海側に東雨の洞門があるトンネルを通って右手の洞門に立ち寄る。

岩盤をくりぬいた洞門から先ほど通った串本海中公園が見える、写真を撮ったりして少し休憩

時刻は9時日差しが出てくる、右手に波の打ち寄せる音を聞き遠くに潮岬を眺めながら歩を進める。

東雨洞門 潮岬を眺めながら
   
   
 高富地区の旧道を進み国道に出たところにトルコの目玉のお守り(ナザール・ボンジュツク)のオブジェがあり、旧道側に

お地蔵さん国道沿いに弘法大師像が立っている。 袋湾の船着き場を過ぎて国道から左へJRのガードをくぐって鬮野川

(くじのがわ)への道へ入る。 海沿いの道から景色は一変、里山の間に田んぼが続くのどかな風景になる。

鶯が鳴き小川の水音がしている農作業をしている人の姿も何人かこんな中を歩いていると落ち着いた気持ちになる。

こんなのどかな道を30分ほど歩いて、10時5分、林の裾の三叉路に祀られている鬮野川(くじのがわ)辻地蔵を拝む。

辻地蔵のすぐ先に右へ橋杭岩への分岐があるがまっすぐ古道を進み、しりで坂を下りてゆく、途中展望所への案内に従い

小高い山に登ってみると橋杭岩から紀伊大島が一望、10時35分国道に出るとそこに地蔵道標が立っている。


鬮野川の道 辻地蔵 展望所から橋杭岩、大島
   
    
 国道から左へ旧道に道をとり紀伊姫駅を過ぎる、すっかり晴れて日が照りつけている、伊串橋を渡り国道に出て

ホテルの手前から線路に沿った細い旧道に入る、坦々と歩いて11時20分、原町の御堂に着く。

西向地区を進み古座駅に続く道を横断して11時25分古座川に出る、渡し場跡だというが面影は残っていない。

河口の古座大橋の手前に1954年ビキニ環礁で「死の灰」を浴びた第5福竜丸建造の地の碑が立っている。

古座大橋を渡るが歩道がなく狭い路側帯はあるが車両の通行が多くヒヤヒヤしながら渡る、ようやく橋を渡り

左へ石段を下りて古座神社にお参りする、時刻は11時40分、5分歩いた先のコンビニでおにぎりを買い海側の

テトラポットに腰を下ろし昼にする。

 日差しは強くなってきているが海からの風が汗を飛ばしてくれる、目の前には九龍島(くろしま)と右手遠くに

大島が見えている。


原町の御堂 古座川畔 第5福竜丸建造の地の碑

古座大橋 古座神社 九龍島
   
    
 目の前の九龍島は昔海賊が住んでいたという無人島で亜熱帯性植物が原生し、頂上には弁財天を祀る祠があり

古くから海上安全の守り神として信仰されてきた。

20分休んで出発、これからは海沿いの国道を歩く、漁港の上を過ぎ12時30分、津荷(つが)の集落に入る、

津荷川の沖出橋で左手に赤い鳥居の先端部が見える、JRの土手の陰になっている様子、津荷の八幡神社で、

橋を渡り川沿いに左へ神社にお参りする。 

12時35分国道に出て暑い日差しの中を黙々と歩く、道が大きくカーブするとずうっと先の方が見える。

紀伊田原の表示が出てくる、前方に 「イルカいらんか? 鯨は熊野びとの食文化」 の看板が。

今、話題のイルカ追い込み漁を思い浮かべる。

12時45分、道路に串本町田原の表示が出ている、左に古座ヴィラへの道を過ぎて紀伊田原に向かって進む

前方に点々と岩礁が見えてきた、もう田原だ、国道が左へ曲がっていく、信号で国道から離れ直進すると5分ほどで

紀伊田原駅に着く、今日の予定はここまで。 今日の宿はここに取っている。


津荷八幡神社 イルカいらんか? 田原沖
   
    
 今の時刻は1時20分、明日の天気を考えると今日のうちにできるだけ歩いておこうと思う。 しかしこの先JRと

連絡しているのはこの次の紀伊浦神駅、最低そこまでは歩いておこうと思い、帰りの電車を確認して出発。

駅のすぐ横に木葉神社がある、「ねんねこの宮」として和歌山県無形文化財に指定されている、伝統行事

ねんねこ祭りが数百年続いている。  小石を積んだ塚がご神体となっており古い神社の形式を今に伝えている。

神社に参拝してから国道に出て田原川に沿って進む、堂道橋を渡ったところ右手バス停に地蔵道標が立っている。

国道は緩やかに上って行きJR線路と並行する、坂を上りつめると古座、那智勝浦町の境界となり、その少し先に

「口熊野、奥熊野境界址」の碑が立っている。

木葉神社ご神体 地蔵道標 口熊野奥熊野境界址碑
   
    
 境界址から50mほど国道を戻り左手の清水峠への登り口へ入る、時刻は2時15分、今朝からほとんど国道や舗装道路を

歩いていたので田並以来の山道、峠迄は10分ほどで2時25分清水峠を越える。

峠から下り国道に合流して浦神湾が見えてくる、近大水産研究所の建物が見え、2時40分紀伊浦神駅に到着、

2時42分発の串本行に飛び乗り紀伊田原駅に戻り、今日の宿舎「あらふね」に3時に着く、

早い到着になったのでゆっくりと汗を流し明日の雨に備え休養を取っておこう。 

 部屋の窓からはすぐ前が海で波の音が聞こえてくる紀伊大島も遠くに浮かんでいる。



清水峠入口 清水峠 紀伊浦神

紀伊田原駅 木葉神社 宿の窓から
   
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   平成27年5月16日 (土曜日)  朝雨のち曇り    
     紀伊浦神 ~ 那智(振分石)    
   
 天気予報通り昨夜から雨になる朝方まで強い雨音が聞こえていた、5時に窓から覗いて見たがまだ降り続いていた。   

出発迄に小降りになることを願って準備を始める。

駅までは歩いて10分、6時半、雨支度をして宿を出て駅に向かう、雲は薄く雨も弱くなってきた感じがする。

新宮行の始発電車は7時45分、土曜日なのに高校生が多く乗っている、私立は土曜日もあるのかなあ、

このところ学校とはとんと縁がないので無案内。

7時前に紀伊浦神駅に着く、雨はほとんど止んでいて雨具の必要はなさそう、来ているカッパを急きょ脱いで仕舞い込む。

7時55分、駅を出て左へ熊野古道の道標に沿って道を曲がると塩竈神社が、本日最初の神社、今日の安全を願って

お参り、その先JRの踏切を渡ると海蔵寺、臨済宗妙心寺派と表示されている。


塩竈神社 海蔵寺 外は雨、宿の窓から
   
   
 お寺の前を山へと入って行く、高木橋、長光橋を過ぎて地道となる、先ほどまでの雨で道が悪くなっている箇所もあり、

歩きいい場所に足を進める。

ゆるい坂がつづき炭焼き小屋を過ぎる、7時20分、熊野古道大辺路の道標が右に細い山道を指している、急に登りとなる。

伸びた雑草に先ほどまでの雨が残り膝を濡らす、雨が降るよりはまし、雲の切れ目に日の陰も見えてくる、こんな天気でも

汗は出てくる、目にしみいる汗を拭きながら10分ほどで休平(やすみだいら)峠に着く、茶屋でもあったのか少しの平坦地

もある。 延享元年、浦神の住人が何を願掛けしたのか台座がある。


山へ入って行く 休平登り口 休平
   
   
 峠を下り始めると薄日が差しはじめる急な下り坂を下ったところに地蔵道標が立っている、林道となって緩やかに下って

行くと民家が見え始め舗装道路になる。 道の両側に田植えの終わった田んぼが広がり道標に沿って田んぼを横切り

山裾の向地集落を進む。 要所要所に迷わないように大辺路の道標があるので見落とさないように注意しているが、

先程の田んぼを横切る道はちょっと見落とし大きくロスをしてしまった、おかしいと思い家から出てきたおばさんに聞いて

引き返した。

8時20分、大泰寺の入口に出る、ここを右折してすぐに左へ行き大宮橋手前の下和田の諏訪神社にお参りする。

太田川の大宮橋を渡り少し先を左へ市屋の集落に入ると5分ほどで太田神社に着き参拝、集落を進むと市屋の休み処が

あったので小休止。


田んぼを横切る 諏訪神社 市屋休み処
   
   
 休み処は熊野古道市屋峠への登り口になっており、8時半道標に従い峠へと入って行く、8時42分、市屋峠に着く、峠には

地蔵尊が祀られている。 峠から10分ほど下ると与根河(よねご)池に出た。灌漑用の人工ダムか?

池畔を道標どうりに進み閉園されたリゾート施設の敷地を進み、祀ってある地蔵尊を拝んで舗装道路に出る。

舗装道路を横断し急な上りを登って二河峠を越す、下り坂となって二河川に出る、川を渡り右折、町道を進み、

ゆかし潟に出るゆかし潟沿いに進み湯川温泉を通って国道に出る。


市屋峠 与根河池畔の地蔵様 ゆかし潟
   
   
 9時40分国道に出て湯川トンネルの手前左側に大辺路最後の峠道、駿田峠(するだ)への入口表示が出ている。

製材所の敷地を通ると犬が2頭鎖で繋いであり盛んに吠え立てる、製材所で働いている女性に断って敷地を抜ける

山道に入り石段を登ると地蔵像が祀ってある、雨でややぬかるんだ道を登って10時、駿田峠に着く。

左手一段と高いところに地蔵様が祀られてありお参りする。 峠を越えると緩やかに下って行き林の間から勝浦の海が

見える、10時15分、勝浦観光ホテルの前を通り国道を横切って左へ紀伊天満の町を抜け、那智山から流れる那智川を

渡って10時35分、補陀洛山寺のそばの「熊野街道振分石」に到着、この振分石は熊野街道(中辺路、大辺路、伊勢路)の

落ち合う中心宿駅で、昨年10月中辺路を歩いた時にここに立ち寄っている。

12日夜雨の横浜を深夜バスで出発して紀伊田辺からの大辺路120Kを無事歩き終わった。

お世話になった宿の人や日置川を舟で渡してくれた船頭、途中道をたづねた人や、一人旅を心配しながら

待っていてくれる家族に感謝して今回の旅を終える。


紀伊勝浦に出て時間があったので港へ行き足湯で足の疲れを取る、勝浦12時23分始発の南紀6号で名古屋に出て

7時無事我が家に帰り着いた。


駿田峠への入口 駿田峠の地蔵さま 駿田峠

熊野街道振分石 勝浦港 足湯(勝浦)
   
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 伊勢路    
       
       
   平成27年9月27日(日曜日)   晴れ        
    伊勢神宮内宮~大台町栃原    
   
 明け方まで2日続いていた雨は、家を出るときには止んでいた。 今日から木曜日までは晴れが続く、台風21号

も本土には接近せず先島諸島から西方向へ向かっていった。

9時15分、宇治山田に着く今回が熊野古道(伊勢路)
の最終回、旅の安全を願って内宮に参拝、朝まで雨が降って

いたので参道は濡れていて砂埃が立たない。 この時間になると参拝の人も多い、日曜日なので特別か?

団体の参拝者は伊勢講の人、講の旗をもって記念写真を撮っている。

参拝を済ませ、今回はご朱印を受領して10時、宇治橋を渡りおはらい町を通って、前回(H25)伊勢本街道を歩いた時の逆

の道順で外宮に参拝、11時13分外宮を出発する、田丸までは前回の逆道、途中で昼食を済ませ、12時5分、渡会橋を渡る

午前中は曇っていたがこのころから日が差してくる、午後からは日差しが強くなりそう。

田丸の伊勢本街道と熊野街道の分岐点に13時10分に着く。

外宮 田丸の街道 熊野街道と伊勢本街道の分岐点
   
   
 ここからが今回の本当のスタート、少しだけ城下町の雰囲気の残る街道筋には醤油のいい香りが漂っている、七曲りを

抜けて田丸大橋を渡ると田んぼが広がる、このあたりから田丸城跡がよく見渡せる。

県道13号を歩いていくと道路脇に接待地蔵が祀られている、なだらかに坂が続き民家の間を縫っていくと、太陽が強く

なってきた。 13時40分、コンビニで小休止、大人になってもアイスはおいしい、たまにどっしりとした民家が現れる。

柿畑が広がってくる作業中の人に尋ねると品種は早生の次郎柿、それにしてもずいぶん続いている。 

県道から旧道に入ったところ、道路の少し上に巡礼道引石仏庵があり、たくさんのお地蔵様に旅の無事を祈願する。

 御詠歌が掲げてある  (くまのじを みちびきたまえ かんぜおん きよきふじょうも ひとはゑらばず)

旧家の並ぶ街道の突き当りに曹洞宗の永昌寺があり、本尊は千手観音立像(室町時代)、辻に昭和初期に再建された

大日堂があり、右に石灯籠、左に辻地蔵が立っている。 境内に紀州の殿様行列の折、旅人が土下座したまま居眠りして

打ち首になり哀れに思った村人が祀ったといわれる眠り地蔵がある。

接待地蔵 石仏庵 柿畑
   
   
 2時45分、西日が強い、腕がまた焼けてきた、県道から旧道に入り成川の集落を行く山が近づいてきた、小さい集落

だが蔵が目立つ。 2時53分、女鬼峠入口の案内板をすぎる、今日初めての峠、山道になり木陰が涼しく感じる、

登って行くと荷車の轍の跡が残っている。 頂上は大きな岩を削った切通しを抜けて峠をこえる。

山頂部は石墨千枚岩を掘り割って通した道で、峠には切通しの崩落を防ぐための古い石積みも見られる。

この切通しがいつごろ完成したかは不明だが、当時の掘削技術を考えるとかなりの難工事であったことがうかがえる。

峠の近くには地元の人が10名ほど街道の手入れ、補修をしている、このような人たちのお蔭で安全に通行することが

できるのだ。 

峠から展望台へ登り作業中の人たちと話をしながら5分ほど休憩、麓の相鹿瀬から柳原の集落方面がよく見える。

成川の風景 峠への道 轍跡

作業中の人たち 女鬼峠 展望台から
   
   
展望台から下って15時25分、名号碑と如意輪観音像を通過する里はもうすぐ、杉林の中を通ってようやく広い道へでる。

左から宮川の流れが近づいてくる、12時過ぎに渡会橋で渡った上流だ15時47分、街道右手に地蔵さまが祀られている。

高さ150cm「貞享5年」(1688)の銘がある、地蔵菩薩は地獄で苦しむ人々を救うと江戸時代ころにはさまざまな形の

地蔵ができ広く民衆に信仰された。

15時53分、右手段丘上の堂内に高さ127cmの五輪塔がある。 貞享元年(1684)の銘がある。伝染病に苦しむ村人のため

自ら生き埋めとなって仏の救いを祈った、当地出身の浄保法師のため建てられた。

県道から旧道に入り16時14分、柳原観音千福寺にお参りする。 本尊の観世音菩薩は聖徳太子の神勅によると言われて

いる


地蔵 熊野街道は右 浄保法師五輪塔
   
   
 16時19分、柳原の元坂酒造を通過、日はだいぶ傾いてきたまだ1時間はかかるだろうか? 急がなくては。

家が途切れ西日に向かって坦々と進む、足の疲れも少し、16時40分、道路の右側にお滝さんと呼ばれる滝が流れこの

水は涸れることがなく熊野詣での旅人もここで喉を潤し疲れをいやしたという。 

道の両側に茶畑が広がっている、三重県はお茶の生産が日本で、静岡、鹿児島についで3番目、このあたり大台町も

茶の産地で、進んでいくと製茶屋さんが軒を並べている。

もう今日の宿泊地、栃原に入っている、国道42号を横断し旧道沿いの岡島屋に着いたのは5時過ぎ。

あ~疲れたし、午後からは日差しの中を歩き、日に焼けた! 部屋に上がって汗を流し明日のためにゆっくりと休む。


茶畑が広がる お滝さん 街道風景
   
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    9月28日(月曜日)  晴れ    
      栃原 ~ 大内山    
    
 山の端に日が当たっている、今日も晴天、岡島屋の前で記念に一枚、7時33分、出発する。

出発して10分、馬鹿曲がり入口で道標に沿って右下に下りて、排水埋設管を確認するも、水が出ており通行不能、

あきらめて上の道に戻り迂回して反対側から入り不動谷橋まで進み引き返す。

不動谷は宮川にせり出した深い谷で、大正12年に鉄道が開通するまでは交通の難所、この地を通る熊野古道は

「馬鹿曲がり」と呼ばれる谷間伝いの大回りを余儀なくされた。

8時15分、神瀬集落に入ると神瀬の多種神祠があり、一つ屋根の下に異なる神様が、左から庚申様、津島天皇、皇大神宮、

山の神と祀られている。

 谷川の林の向こうに明治40年に作られたレンガ造りの立派な神瀬橋(通称「めがね橋」)が見える。

踏切を渡って林の中に殿様井戸が湧き出ている、江戸時代に殿様がこの地に鷹狩に来たときに休憩を取ったため

「殿様井戸」と呼ばれるようになった。 街道は神瀬に入ってから旧道が続き国道は左下方向、

8時48分、下楠の集落に入る、上空には雲の影も見えない。

朝の街道 神瀬の多種神祠 めがね橋(神瀬橋
   
 
 8時55分、下楠の常夜灯と六字名号碑が宝泉寺の前に建っている。

南無阿弥陀仏と記した弘化3年(1846)の大きな碑と天明元年(1780)の銘のある常夜灯。

宝泉寺の別堂(報恩堂)には信濃善光寺の阿弥陀如来が祀られている。 明治9年12月、信州善光寺の出開帳の一行が

下楠に差し掛かったとき伊勢暴動(百姓一揆)に遭遇した。止む無く一行は本尊入りの厨司を当寺に預け信州に帰った。

明治15年住職は善光寺に赴き回向料を納め本尊を別堂にお祀りした。 

善光寺から発せられたその約定書が当寺に保管されている。

9時5分、川添駅を通過、台座に享保年間の銘がある 庚申さんと天皇さんは道の右手に、お茶畑と製茶工場が左手に続く

9時34分、粟生の集落を抜けて国道に合流する、左手に道標地蔵が立っている、民家が途絶え国道42号の歩道を

ゆるゆると上りが続く、9時50分、赤い鳥居とお城のような建物が道路脇に現れる、宗教法人の本部のようだ。

高速道路をくぐった先に国道の脇に石龕地蔵がひっそりと佇み旅人を見守っている。

少し急になった坂を上って、頂上の石屋さんから国道を離れ急な土道を下り10時15分、下三瀬に着く。

六字名号と常夜灯 道中安全祈願地蔵 石龕地蔵
   
 
  かつて宮川の三瀬の渡しがこの近くにあったはず、渡し跡を探すが見つからない、近隣に聞いてもはっきりしない、

こめはば(米配場)の案内板が立っている、三瀬の渡しを渡った米や塩がここで荷おろしされた場所なのでこの近くに

違いないと思っていると、畑仕事中の婦人が渡し場跡を教えてくれた。

探していた場所からずっと離れたところから杉林の崖を下りて行く、川岸まで下りるのは断念して途中から眺めるに

とどめる、途中で足を取られたヅヅッときたが踏みとどまった、手やズボンは汚れてしまった。

三瀬の渡しの説明板によると、「こめはば」を代表する双子岩から約500m下ったところに通称トウケンと呼ばれている

大きな岩がありこの付近が三瀬の渡し場跡、滝原宮の三大祭に伊勢神宮の幣使の一行(約150人)が対岸三瀬川へ渡る

時、宮川を眺め一服した腰掛岩が渡し場にあった。 渡しの料金は一人6文、三瀬氏の収入源とされた。

思わぬ時間がかかり、10時50分、元の道に戻り途中の溝の流れで手を洗い11時、慶雲寺に到着する。

慶長10年9月(1605)に8代伊勢国司、北畠具教の家臣、三瀬左京祐が三瀬氏の菩提寺として創建。

前には三瀬砦跡があり、織田信長に追われた8代伊勢国司、北畠具教が三瀬館を構えた際の貴重な砦。

現在は杉が植えられ八幡社が祀られているここから30分ほど歩き、三瀬谷の駅に来たときは11時半、

この後はまた峠になるのでここで昼にする。 三瀬谷まで少し時間がかかりすぎたなあ。

三瀬の渡し場跡付近 こめはば説明板 慶雲寺
   
   
 20分休んで11時50分、昼の日差しの中へ出る、三瀬谷は紀勢本線の特急も止まるので駅前は今までの駅

と比べてちょっとは人陰が見える。

線路を渡り反対側に出る、すぐに宮川を渡る、船木橋は登録有形文化財でレンガつくりの橋脚をもっている。

橋上から川面を見下ろすと左から大内山川が合流しており、澄んだ大内山川の水が白濁した宮川に合流している。

12時6分、宮川の南側に出て東方向に大きくカーブして午前中歩いた対岸を引き返し、三瀬坂峠を目指す。

民家の途切れる箇所が長くなり三瀬坂峠1800mの道標が出ている、つくつく法師が鳴いている、道路脇には秋の花が

咲き、空は高くなっているとはいえ日差しは照りつける。

40分近く歩いて、三瀬の渡し場跡を探した対岸まで着く、そして12時40分、かつては三瀬の渡しを渡り終えて参拝した

多岐原神社に到着、林のなかに静かに玉砂利を踏み参拝する。

宮川に大内山川が合流 旧船木橋 多岐原神社
   
    
 妙楽寺を過ぎて道標に従い民家の間を通って三瀬坂峠へ向かう、民家の農機具小屋にいた年配の人に、杖を

持って行った方がいいよと言われ、入口にあった杖を手にする、峠を越えて向こう側の登り口に返しておけばいいからと

未舗装の峠道となり杉林の急坂を登る、休みながら峠への道標に沿って登って行くと13時18分、三瀬坂峠に到着する。

峠の道標と石積みの祠に宝暦地蔵が祀られている。

峠からは石がゴロゴロした急坂の下り、苔むした道を下りて行くそして13時30分、里登り口に出る。

ここで借りた杖を返却しておく。

船木橋から国道を直進すればここまで30分もかからず来れたのにと思ってしまう、13時45分里の集落をを抜けると前方

に滝原宮の森がみえてきた

峠への道 三瀬坂峠 宝暦地蔵
   
   
 14時、滝原宮に着く。 

滝原の宮は皇大神宮(内宮)の別宮で天照坐皇大御神の御魂をお祀りしている。 天照大神が伊勢に落ち着く前に祀ら

れていた場所で、深い杜に囲まれた神域は44ヘクタールの広さがあり、樹齢数百年を数える杉の木立に囲まれた参道の

長さはおよそ600m。 ゆっくりと参道を進み滝原宮、滝原竝(ならび)宮と若宮神社、長由介(ながゆけ)神社に

お参りする。 ここでもご朱印を受領し、参道入り口の鳥居に戻った時、時刻は14時15分になっていた。

ここまで19キロを歩いている、宿泊予定の大内山まで15~6キロ残っている幸い坂道はない、頑張らなければ !

参道入り口 滝原宮 参道
   
   
 街道に出て先を急ぐ古い民家の残る滝原の通りを西日を正面に受けながら歩く。 14時40分、滝原駅入口を通過、

国道から側道に入り、大宮小学校を過ぎる、3時を過ぎた、自転車の中学生数人が挨拶をして過ぎてゆく。

3時20分、阿曽踏切を渡ると蝦蟇石(がまいし)と呼ばれる石灰華の塊が露出している。

このように形成されて露出しているのは国内でも大変珍しいらしい。 15時28分、落瀬橋から大内山川を眺めて

ふうっと一息、きれいな川をみつめている間もなく歩き出す、その先の阿曽観音堂では中学生かな?3名の男の子が

キャチボールしている。 阿曽駅を通過して国道に合流し藤ケ野から旧道に入り川沿いの道になり再び国道に出る。

滝原の街道 落瀬橋から 阿曽観音堂

   
   
 道は山影になり日陰の道をひたすら歩く、16時23分、柏野大橋を渡る、橋の下の垣内後(かいどり)庚申塚による。

旧道が続くのどかな田園風景、いい空気の中、だがそんな気分を味わう余裕も無くなってきた。

西日の中、立派な古民家が立ち並ぶ宮原地区を歩く。 伊勢柏崎駅を16時51分に通過、あと一駅、

日は落ちて次第に薄暗くなってくる。 

ちょっと無理をしたかな、宿泊地のある所を考え本日の行程を組んだのだが、国道に着いたり離れたりしながら

17時33分、、駒ケ瀬橋の道標に従い道を取る17時51分、大内山の一里塚跡に到着。 

かつては松の木が道の両側にあった、今は2代目の松が植えられている、一里塚の石碑とお地蔵様が建っている。

不動野橋からは山道を回避して国道を行く。

すっかり暗くなって国道を行く車のライトが流れてゆく、宿でも心配していないかと思い気が焦る。

江尻橋を渡って大内山の町中に入った。18時30分、喜畑旅館のネオンが眼に入ってきた、ホット一安心。

旅館について遅くなったことを告げると、まあこんな時間になりますよとの主人の返事、栃原から35キロほど

歩いたかいくつの集落を通過したのだろうか、それにしても本日の歩きがちょっと気になっている。


垣内後 庚申塚 伊勢柏崎付近 大内山の一里塚跡
   
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 平成27年9月29日 (火曜日)  晴れ
   
     大内山 ~ 三野瀬    
 
 予報通り晴天が続く、7時過ぎに旅館を出発、今日は伊勢と熊野を分けているツヅラト峠を越す伊勢と熊野の国境だ。

大内山の駅前に中組常夜灯が立っている、国道に出てしばらく行くと牛乳瓶の上に牛が乗ったモニュメントがお出迎え。

国道に合流したりすぐ側道に入ったりしながら7時38分、梅が谷の信号を右へ渡る、直進すれば江戸時代初期より本道に

なった荷坂峠に向かう。 

信号を渡り大内山川を渡ったところに道標があり、昭和20年代まで国道の交差点に建っていたが、道標の指差し方向は

「荷坂」か「つづらと」か設置年代と共に定かではない、世界遺産登録を機会に中央公民館に保管していたものを

ここに移し設置したもの、という教育委員会の説明が添えられている。

東の山影を歩いていたのでここに来て初めて日差しを浴びる、空には一点の雲もない。


朝の大内山 牛乳瓶のモニュメント 道標
   
    
 田んぼと、民家が点在する間を西方向へ向かって歩き、8時、定坂公園に到着する、向かいはバス折り返し場になって

いる。 西国巡礼の三十三カ所ミニ観音石仏群と西国観音霊場の復興に尽くされた花山法王の碑が建っている。

ツヅラト峠登り口2000mの道標がみえる。 5分休んで出発、下里の集落を栃古橋の手前で左折、歩行者専用道路となり

間もなく地道となる、丸太の橋を渡ったりしながら8時半、ツヅラト峠登口600mの標識を通過。

高野橋の手前を左折、案内板を過ぎて、8時40分、ツヅラト峠登り口の道標で林道から右の峠道へ。

ツヅラト峠は「九十九折」れが語源でその名のとおり曲がりくねった峠道で峠からは雄大な熊野灘が展望できる。


花山法王の碑 道標(登り口まで1400m) ツヅラト峠登り口
   
   
 登り口道標を右にほどなく谷川を渡り急坂にさしかかると、すぐ「ツヅラト峠01/18」の道標が目に付く、

世界遺産登録地内には木製の伊勢路道標が約100m間隔で設置されており、この道標を目安に登って行く。

桧の植林のなかを登り急坂を行くと林道に出会う道標は06/18、その先がツヅラト峠の頂だ。

見晴台から紀伊長島の町の向こうに熊野灘の景観が広がっている、伊勢から歩いてきてはじめて見える海の景色。

東屋で景色を眺めて休憩、時刻は9時17分。

ツヅラト峠 頂上の展望

   
    
 峠からの下りは九十九折の道が続いている側面は野面乱層積の石積で補強され、自然石を積み上げた石垣が

風雪に耐え、今も残っている。 九十九折れに下りて行くと小さい祠に山の神が祀ってある、道脇のシダがきれい

石畳右へ曲がるの表示に従い石畳道へ入る。

ツヅラト峠は江戸時代になってから東寄りの荷坂峠に本道をとってかわられたが、昭和初期までは生活道路として

利用されていた。 地元のボランティアの熱心な探索修復のお蔭で古い石畳道は掘り起こされている。

10時5分、ツヅラト石道登り口の碑を通り、ここで道標18/18、谷川を渡り林道に合流する。


山の神  石畳道
   
   
10時15分、舗装道路へ出る、ツヅラト峠を守る会が作ったビオトープ「めだかの分校」があり、睡蓮や水芭蕉が植えられ

ていて時期になればきれいな花が咲くことだろう。花広場の前を川沿いに南下する、道路の真ん中に大きい木が2本

、道は国道422号になっている、峠を下りてから夏のような日が照りつけている。 10時50分、角田橋を渡る、

この3日で腕はすっかり赤銅に焼けている。 赤羽川に沿いに1時間も歩いて国道42号の長島北の交差点を横断、続いて

紀勢本線の踏切を渡り長島橋で右折する。  紀伊長島駅は左手、前方は長島港。

左手に濱口熊嶽邸跡と記念碑がある。 濱口熊嶽は霊術家、尾崎行雄、御木本幸吉と並ぶ三重県の3傑の一人。

通過している「魚まち」は懐かしい狭い通り、熊野灘に向かって埋め立てられる度に道が作られたので道が三重に

なっている。 潮の香りの漂う路地「合い」の町。

11時42分、長島神社に寄る、長島城が落城した天正合戦の兵火により焼失したがその後再建された。

魚まちを抜けて国道42号を左折して消防署の横の木陰で昼食にする。

魚まちの通り 道標(左くまの道 長島神社

   
   
 12時5分に出発し古里海岸を目指す、今日の宿泊地は古里に予約している。

左ては江ノ浦湾、湾の奥に長島造船を見ながら緩やかに坂を上がり12時40分、国道から踏切を渡り、

山道に入り一石峠への登りにかかる。 長島から古里へは一石峠と平方峠を越えていく。

一石峠は一部消失しているためその間は林道を通る、なだらかな一石峠を登ること15分、峠を越える。

古里海岸まで1.1キロの表示をのところげゲートの脇を抜けて舗装道路にでる、ここが平方峠。少し歩くと

海が見下ろせる、道を下って古里の町へ、夏場は海水浴客で民宿も賑わうらしいが、この時期は客もいない様子。

今日はここ古里で宿泊する、時間が早いので荷物を民宿に下ろしもう少し先まで歩くことにする。


一石峠への道標 一石峠 海が見える

   
     
 民宿「美浜」によって荷物を預け4時ころまで歩いて適当なところで電話するので迎えに来て欲しいとお願いする。

分りやすい場所で待っているようにと言って了解してもらう。

1時40分、民宿に荷物を置き、再出発、国道の古里トンネルの手前左のリゾートホテル跡を登ると「ここから先は崩落の

ため、通行止め」 の表示が出ている。 少し先の展望台でその先は道路が崩落している、海に赤野島、丸山島が

見えている、引き返し国道の歩行者専用のトンネルをくぐって道瀬の集落に入る。

道瀬海岸から三浦峠道(熊谷道)を目指して林道に入る、すぐに左手に登り口があり、ここが三浦峠の登り口。 

登り口からJR三野瀬駅まで約2.5キロ60分の行程。


古里海岸 展望台から 三浦峠登り口
   
    
  道瀬浦から三浦峠を越え、三浦へ至る道は、満潮時に潮がさす湿地帯をさけ、熊谷と呼ばれる山あいを大きく

迂回するため熊谷道と呼ばれている。 大正6年にトンネルが開通するまでは唯一の道路として使用されていた。

生活道路として利用されたとは言っても道幅は狭く頂上あたりは荷車も通れない状況に見える。

休みながら登り3時に三浦峠を越える、下りに入って歩行にちょっと異常を感じている。

時間がかかりすぎているかなとも思う、3時20分、熊ケ谷橋を渡る、この橋は以前から木橋が架橋されていた。

第二次大戦末期に流失したままになっていたが、世界遺産指定を受け、現在の両岸に残されていた石積基礎台を生かし

復元された。

やがて舗装道路に出て3時半過ぎ三野瀬駅に到着、宿に電話をして主人に迎えにきてもらい宿に着く。

明日は予定を早めて一旦帰ることにする。


三浦峠 熊ケ谷橋 三野瀬駅
 
   
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 平成28年5月12日(木曜日)  晴れ
   
     三野瀬 ~ 尾鷲(八鬼山入口)    
   
朝7時10分、JR紀勢線三野瀬駅にいる。 思えば昨年9月伊勢神宮から熊野古道を歩き、体調に異常を感じてあるきを

中断、自宅へ引き返したのがこの駅であった。   いろいろな思いで今ここに立っている。

 空は一点の雲もなく晴れ渡っている。 7時15分三野瀬駅を出発、国道左側には静かな入江が広がっている。

国道から標識に従って左折し、始神さくら広場を過ぎたところから未舗装の道となり、右手に発電所を過ぎると始神峠

の登り口になる、ここで時刻は7時35分。  新宮まで82キロの標識を過ぎ、比較的緩やかな傾斜の道を上って行く、

 杉林の右にJR、その向こうに国道、始神峠1/16の道標、世界遺産の道がここから1600m続いている、国道から離れて

行くあたりから、石がゴロゴロして木の根が張り出し歩きにくい道が続く。

十二曲がりの石碑から急な登りになる周囲は杉林、道標は7/16、 登り初めて30分、道が平らになり8時5分始神峠に

着く。
静かに広がる入江 始神峠への登り 始神峠

 始神峠は標高147m、伊勢路の峠の中でも景勝の地として知られており、江戸時代から明治にかけての茶屋跡の

石積みが残っている。 ベンチの休憩所で一服し、熊野灘に浮かぶ紀伊松島の島々を眺めて水分補給、晴れた日には

志摩半島まで見渡せるという。

峠を20m程下ると右手から明治道が合流し道幅が広くなる。 明治時代に荷物を運ぶための大八車が通れるように

作られた道、道の崩落を防ぐため自然石を積んだ野面積の石垣が残っている。

8時15分、江戸道と明治道の分岐にさしかかる、江戸道は左へと下りてゆく。
峠からの眺望 明治道が合流(左から) 野面積の石垣
   
 
 広い明治道を行く、これは歩きやすい道だ、雑木林を下りて、8時45分、里に下りて民家が見える、五月の風を受け

鯉のぼりが勢いよく泳いでいる、田植えが済んだ田んぼが涼し気に広がる。

大舟川を渡って国道を横断、旧道に入り馬瀬の集落に入る、時刻は9時を過ぎたところ、少しの間人家の無い道を進む

国道とJRを横断して上里小学校を通過、10名ほどの生徒が校庭の百葉箱の前で先生の説明を聞いている、4年生

くらいだろうか?

9時45分、国道脇にある曹洞宗修禅寺にお参りする、境内の宝篋印塔は村の古文書によると、南北朝時代この地に

源義家の末裔の松葉義澄が住んでいたと言われていることから、松葉義澄と関係があるのではないかと言われて

いる。・・・・・・・・・海山町教育委員会の説明板

9時55分、左手にJR船津の駅を過ぎる。
始神峠の下り 上里の街道 修善寺の宝篋印塔
   
   
 10時、海山(みやま)に入る、八重垣神社を過ぎると右手に海山郷土資料館がある。  

明治43年(1010)に松永家の別邸として建設され向栄館と名付けられた。昭和25年に船津村に寄贈され公共施設と

して利用された後、昭和55年からは海山郷土資料館として利用されている。

山は今、萌え出したばかりの若葉がせり出している、太陽が照りつけているが湿気が少なく風が心地よい。

ここからしばらく国道に着いたり離れたりして進む、伊勢自動車道をくぐって10時55分、コンビニによる。

この先峠越えになるので、少し早いが昼食用のおにぎりを買う。 11時5分、JR相賀駅前を通過、相賀神社の道標は

新宮へ70キロの表示が出ている。

相賀も南へ抜けるあたりの真興寺の、境内にある「はまぐり石」と呼ばれる石は、巡礼手引観音と言われ熊野詣でや

西国三十三ケ所巡礼の道しるべとなっていた石仏。正面円内に観世音菩薩を浮き彫りにし周辺に銘文が刻まれている。

海山郷土資料館 街道風景(海山) はまぐり石
   
   11時10分、銚子川に出て川を左に見ながら進む、この地方の川はすべて透明度が高いが、銚子川は奇跡の川と

言われるほど透明度が高く澄んでいる。

11時半、便ノ山橋で川を渡りJR踏切を越して右へ発掘石畳の道へ入る、2004年に地域の住民によって発掘された石畳

で、いったん国道に出て少し戻り、12時10分、新しく整備された石畳の馬越峠(まごせとうげ)登り口に着いた。
銚子川 便ノ山橋 発掘石畳
   
 
 国道42号の鷲毛バス停からすぐ左に出ている、馬越峠(まごせとうげ)登り口の案内標識に従って登って行く。

馬越坂は古代からの熊野三山信仰に伴って開かれ、大正初期に旧国道が整備されるまで、当地方の幹線道路であった

登り始めてすぐに江戸時代に作られたといわれる、美しい石畳が約2キロに渡って峠まで続いている。

紀州藩の駕籠が通れるように道幅は1間半(約2.7m)あり、全国有数の多雨地帯であり、土砂の流出や崩落を防止する

ため石と石との隙間がほとんどないように敷き詰められている。  大正6年まではこの道が県道であった。

杉林の中に美しい石畳道が続いている、こんな大きい石をどうして持ってきたのかと思うような石も多い。

20名程の古道歩きのツアー客を追い越して、12時17分、夜泣き地蔵を過ぎる。

旅の安全を祈るために建立された地蔵様は、いつの頃からか子供の夜泣きを封じると信じられて夜泣地蔵と呼ばれる

ようになり、哺乳瓶が供えられている。   峠から下りて来る女性とすれ違う。

馬越峠登り口 馬越坂の石畳道 夜泣き地蔵
   
 
 谷の小川に大きな一枚岩の橋が架かっている、馬越一里塚跡を過ぎる、石積みのあとが残っているだけ。

急な登りが続いて前方が明るくなって檜が伐採され、新しく植林されている、鶯の鳴き声が気持ちを和ませてくれる。

急坂を一登りして林道の交差点に出る、時刻は12時35分になっている、ベンチがあり休憩スペースになっているので

ここで昼食休憩をとる。 リュックを下し、コンビニで買ってきたおにぎりとお茶を出してベンチに腰を下ろす。

峠から下ってくる男性があいさつをして下りてゆく、先ほど追い越したツアーの一行はまだ登ってこない。

登りが続く石畳道 林道から続く登り
   
   
 12時50分まで休み出発、峠まで15分の表示が出ている、ちょっと登りが急になる、杉、檜の大木が並んでいる。

10分歩いて1時に馬越峠に到着する。 海山町と尾鷲市の境、標高325mの馬越峠にはかつて頂上の平地に、

馬越茶屋があった、茶屋跡を忍ばせる石垣が残され、茶屋の主、世古平兵衛が峠にお祀りした岩船地蔵尊には

享保8年(1723)の銘があり開業年はさらに遡る。  茶屋をたたむ明治中頃まで多くの巡礼や旅人をもてなした。

・・・・・・・峠に立っている説明板

右手少し高いところに江戸末期の俳人、可涼園桃乙 「夜は花の 上に音あり 山の水」 の句碑が立っている。

近江の俳人、河涼園桃乙は嘉永5年(1852)に熊野巡遊の旅に出て尾鷲地方に滞在、地元の人たちに発句の指導を

した。  嘉永7年(1854)に尾鷲地方の弟子たちが河涼園桃乙を偲んで句碑を建立した・・・・・・説明板

ここからは尾鷲へ下りで1時間ほど、ちょっと早く着きすぎる、峠に(天狗倉山 600m 30分)の道標が立っている。

古道からは離れるが人気のハイキングコースという、時間はあるので寄ってみることにした。

馬越峠 河寮園桃乙の句碑 天狗倉山への道標
   
 
 峠から東へ急な尾根道を登る、あごをつくような急な階段を登って岩場を過ぎると頂上に着く。

山頂は巨岩になっていて鉄梯子を上って頂上出ると絶景が広がる。 522mの山頂からは尾鷲の市街と熊野灘が眼下

に広がり、遠くには大台の山が見える大パノラマ。

汗をふきふき登った疲れも一瞬にして飛んで行ってしまった。  山頂の眺望を堪能して馬越峠へ戻って来たのは

2時、峠では何人かのハイキングの人たちがベンチで休憩していた。

山頂の大岩 山頂から尾鷲市街 山頂の眺望
   
 
 尾鷲に向かって峠を下り始める、下りも石畳が続く、自然林が多く明るい道となっている。 

急な坂を下っていくと、川の向こうに桜地蔵が祀られている。  道は馬越公園へと入り公園から右へ2分の標識に

沿って行くと馬越不動尊があり、見事な不動の滝が流れ落ちている。 古道に戻り舗装道路となり尾鷲市街を見下ろし

ながら、墓地の間を抜けて市街地となり民家の間から北川橋へ出る。 右手の尾鷲神社に参拝する。

樹齢千年を超える大きな楠の木が道にまではみ出している。

峠から下り石畳 尾鷲神社 大楠
   
 
 2時50分、北川橋を渡って中井町通りに入る、かっては宿場町で旅籠が軒を連ねていたという。

3時半、紀望大通りを横断して朝日町に入ると日本屈指の古玩具が展示されている土井子供くらし館があるが、事前

の予約が必要。 林町本通りでは古い町並みが残っている。

林町には旧林浦の在蔵が街道の左手にあり、これは紀州藩へ税として納める米や飢饉に備えた囲米(かこいまい)

を収納していた。 津波を避けるため石垣地盤の上に建てられている。 郷倉とも言う。 今時刻は3時40分。

中川を渡りJRのガードをくぐった先に片袖橋や石経碑が集められている。

この先街道は矢ノ浜道へと続いている。

街道風景、林町本通り 在蔵(郷倉) 片袖橋・石経碑
   
 
 矢浜地区の入口にある矢ノ浜庚申を左に曲がって矢浜道に入る、民家の軒先や路地裏のような狭い道が続く

灰窯や古い井戸などがあり、ここに入るのかと思うような道を、熊野古道、やのはま道の案内を頼りに歩く。

矢浜町を抜けて矢ノ川橋を渡り、東邦石油のタンクを大きく回り込んで4時20分、熊野古道八鬼山への曲がり角にある

尾鷲節「道標歌碑」に着く。  ”ままになるなら あの八鬼山を 鍬でならして通わせる” 三重県を代表する民謡

尾鷲節の歌詞を刻んだ道標が立っている。 矢浜の大工と峠の向こう三木里浦の娘の悲恋を歌ったもの。

昭和30年代の前半まで(~1958)西国三十三ヶ所第一番札所、那智山青岸渡寺へ向かう巡礼者が八鬼山を越えた。

矢ノ川橋を渡ったこの付近で登り口がわからず難儀した、道に迷う巡礼者の便宜を思い、昭和32年(1957)に尾鷲市

矢浜の相賀徳一氏が自費で建造したもの・・・・・・・・と横に立っている説明版に記載されている。

時計は4時半を過ぎた、今日はここまでとしバスで尾鷲市内へ戻る、明日は八鬼山越えが待っている。

矢ノ浜庚申 矢ノ浜道 尾鷲節歌詞道標
   
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    平成28年5月13日 (金曜日)     晴れ     
        八鬼山入口(尾鷲) ~ 新鹿    
 
 宿から駅へ向かう途中、右手に昨日登った天狗倉山が朝日を受けて尾鷲の町を見下ろしているように見える。

昨日はあの頂上へ登ったんだなあと思いながら駅へ向かった。

朝の列車は5時50分の後は7時半までないので、一番列車に乗って昨日の終点へ向かう、この時間にもう高校生が

乗り込んでくる。


一駅列車に乗り徒歩で昨日の終点、熊野古道八鬼山の標識へ着いたのは6時20分、桜が植わる坂道を上がり6時半

に八鬼山登り口から左へ古道に入っていく。

天狗倉山 八鬼山入口 八鬼山登り口
   
   
 杉林の中に入り最初は平坦な石畳が伸びている、世界遺産の道標が100mごとに立っている、まずは1/63

八鬼山道は平安時代後期には開かれていた、熊野道、伊勢道と呼ばれ急峻な峠道は熊野古道伊勢路最大の難所

と言われている。 終点の名柄一里塚までは4時間の道程、行き倒れ巡礼供養碑を6時45分に過ぎる、行き倒れの

巡礼者を地元の人たちは手厚く弔い供養碑を建てた、これはは茨城県筑波郡伊奈町の人、武兵衛の供養碑である

と説明書きがされている。  八鬼山には長崎県壱岐、広島県、群馬県など合わせて4基の供養碑が残っている。

谷川を渡り登りがきつくなってくる八鬼山石畳道の案内板を見て7時に駕籠立場と麓茶屋跡に到着、駕籠立場と

町石の案内板が立っている。

駕籠立場は藩主や巡見使などが街道を通行するとき駕籠を止めて休憩した場所。

 享保7年(1722)第6代、徳川宗直、宝暦11年(1761)第7代、徳川宗将、寛政11年(1799)第8代、徳川重倫が八鬼山を

越えた藩主として記録がある。

町石(丁石)は一町ごとに立てた道しるべ、麓から八鬼山の頂上(標高627m)までに50体が立てられたが現在は

33体が現存している。

行き倒れ巡礼供養碑 続く石畳道 駕籠立場跡

   
   
 駕籠立場のベンチで休憩し水分補給、5分休んで出発、谷川を2つ渡って林道に出る、横断して前方の階段を上がる

峠まで2370m、90分の表示が出ている。

7時20分、八鬼山越えの最大の難所七曲りに差し掛かる、最も勾配がきつくジグザグの石畳の登りが延々と続く。

汗を拭きふき約300mほどの距離を15分かかって7時35分七曲りの上に着く。

七曲りを登っているときも絶えず水音が聞こえている、豊富な水が流れ出していることが感じられる。

7時46分、桜茶屋一里塚跡に着きベンチに腰を下ろす、下のほうに尾鷲の町が見えている。

七曲り 桜茶屋一里塚 尾鷲の町
   
 
 8時、道の右手に巨岩が現れる、手前の平たい石が「蓮華石」後方の縦長の石を「烏帽子石」と呼んでいる。

石の形が蓮華(ハスの花)と烏帽子によく似ていることからこの名がついたらしい。

8時5分、九木峠に到着、峠の片隅に小さい道標が立っている。  正面 「右 みきさとみち」 「左 くきみち」

左側面 「大正十五年五月建立 九鬼村役場」 と刻んである。

九鬼村は九鬼水軍発祥の地で、当時役場が道標を立てるほど多くの通行者があったようだ。 鉄道の開通まで

この峠道は生活道路として欠かせない道でもあった。 道標は31/63 、標高は522m、一時間半かかっている。

右へ八鬼山へと向かう、15分で荒神堂に到着、西国三三ヶ所一番札所の前札所として多くの人が参拝した,

また、太平洋戦争中は尾鷲や近在の人たちが武運長久を祈願してにぎわった。

蓮華岩と烏帽子岩 九木峠 荒神堂

   
 
 並んでいる荒神茶屋跡を過ぎてなおも石段の登りを行く、そして8時25分三木峠(八鬼山峠)に到着。

標高627mの八鬼山峠(三木峠)、左手に東屋があり休憩所になっている、荷物を肩から下して10分ほど息を入れる。

この平地に三木峠茶屋があって八鬼山越えの旅人や巡礼者をもてなした、いまは敷地の沿道に残る石垣だけが

昔の姿を留めている。

江戸後期の文人、鈴木牧之はここから見た雄大な熊野灘に感動して

  「春寒し 見下ろす海の 果てしなき」 の句を残している、寛政八年二月四日(1796.3.12)のことである。

8時35分に出発、ここから道はまっすぐ行けば谷を下る明治道、左へ行くと尾根を進む江戸道に分岐する、左へ

江戸道を行くと5分で芝生のさくらの森広場へ出る。 ここの東屋からは正面に九鬼水軍で有名な九鬼の町が

天気がよければ東は志摩半島から西は紀伊の山々から熊野灘を望む大パノラマが広がる。

残念ながら遠くには雲が出ている、ここで10分眺望を楽しんで、8時50分、下りに入る。

八鬼山峠 桜の森広場からの眺望
   
 
 自然林の中の道になり急な下り坂が落ち葉で埋もれていて滑りやすい、下りの道も結構大変、一人で登ってくる人

と出会う道標、51/63のあたり、9時20分、十五郎茶屋跡を過ぎて急な下りになり9時40分、峠で分岐した明治道と

合流する。 沓川沿いに下って行き9時50分、八鬼山峠道案内板に着いた、三木里登口で道標、63/63終点である。

沓川を右手に見ながら、10時、名柄一里塚に到着、道標には新宮54キロの表示、道は舗装路になって名柄の集落を

通って三木里の海岸へ出て町中を抜ける。

落ち葉の積もる道 江戸道、明治道の合流地点 名柄一里塚跡

   
 
 三木里の集落は宿場の名残が残っており、激しい雨風と日差しを防ぐ雁木のある家並みも目立つ、国道311号から

右の山へヨコネ道へと進む、近年地元の方の努力で発見整備されたルートで左下に海を見ながら明るい道を歩く。

再度国道に出て再び山道に入って、11時15分、三木峠に着く、峠から左へ展望所に上って一息入れる。

ここも絶景が広がり一瞬疲れもどこかへ吹き飛ぶ。

峠に戻り下りていく、11時30分、民家の間を通り抜けていったん国道に下りる。

三木里の町並み 三木峠 峠の展望所から
   
 
 国道から羽後峠登り口の道標に沿って進む、森の中に石垣が残っている、昔は民家のあった跡だろうか?

続く石垣は猪垣(ししがき)、右手に山の神が祀られている、猪垣の間を抜けて羽後峠に12時15分に着く。

三木峠から羽後峠にかけての道は昨日から今朝にかけて通過した道と比べて、割合緩やかな傾斜の道である。

見事に続く猪垣に沿って進むと石の道標が有りそこで左折 「左、くまのみち」と記されている。

賀田羽根の五輪塔は賀田秋葉山を中興した修験者の供養塔、前を下って階段を下りて賀田の町に出る、時計は

12時35分になっている。 食事処を見つけ昼の休憩にする。

羽後峠 猪垣(ししがき 石の道標「左 くまの道」
 
   
 
 靴から足を開放して1時半まで休み、出発するJR賀田駅を通過し左には賀田湾が広がっている、午後の日差しは

照っているが平地を歩くときはそんなに暑さは感じない、海から吹く風は気持ちよく過ぎていく。

曽根の集落を過ぎて、向井地墓地横から曽根次郎坂を登る。 1/39 登り口からJR二木島駅までは約100分の道程。

 登り口手前の曽根五輪塔は戦国時代曽根近隣八ケ村を治めた曽根弾正夫妻と長男孫太郎の墓碑。

杉林の石畳道を登る、江戸城改修の際に紀州藩が献上した熊野曽根石の石切り場が左山林の谷間に見られる。

行き倒れ巡礼供養碑が立っている、この碑は古道のあちこちで見る、往古の巡礼者、旅人は途中で多くの人々が

亡くなったのだと、また、そんな旅人を弔った地元の人たちの心ゆたかな心情を思いながら登って行く。

坂の途中振り返れば、静かな青い賀田湾が林の間を透かして見える。

曽根弾正の墓 曽根次郎坂の登り 行き倒れ巡礼供養碑

   
 
 曽根の一里塚を過ぎるとやがて森の中に鯨石と呼ばれている巨大な石が見えてくる、ナガスクジラのように

見える。 まだ900mしか登っていない、そして2時25分、甫母峠に着いた。

ここは現在尾鷲市と熊野市の市境であるが、遠く大化の改新(645年)から天正十年(1582)まで紀伊と志摩の国境

だったところ。 峠には地蔵が祀られほうじ茶屋跡があり東屋が建って休憩スペースが設けられている、休憩し

水分補給で一息入れる。 時刻は2時25分、峠から5分ほどで盾見ケ丘に着く、二木島湾を抱く盾ケ崎が見える。

鯨石 甫母峠 盾見ケ丘の眺望

   
 
 林の中をひたすら下りていく、こちらは曽根太郎坂、林の中には猪垣が続いている石畳が残る道を下って

3時10分、猪垣記念碑が立てられている、それによると、個々の猪垣は高さは2~3mあり熊野地方でも群を抜いて

見事なもので、寛保元年(1741)3月から翌年2月までの1年かかって築いたと記されている。

3時20分、二木島の集落に出る、JR仁木島駅の横をくぐり急な細い石段を登って国道へ出て、二木島峠、逢神坂峠

登り口の表示に沿って旧道に入る。

見事に続く猪垣 二木島側登り口 二木島湾の眺め
   
   
 登り口から二木島峠まで800mの道標が立っている、まずは1/30 ここにも巡礼供養碑がある、手を合わせて過ぎ

る。 4時5分に二木島峠を通過、道は少し緩やかになったがまだ登りが続く。 逢神坂峠までは約850m、なだらかな

山道が続き、4時25分、逢神坂峠に到着する。 道標14/30 ここからは下りになるが急な個所もあり気を付けながら

下りてゆく。  新鹿登り口案内板をすぎて30/30 集落に出て街中を抜け国道に合流、里川橋を渡って5時、

新鹿駅に到着し本日の終わりとする。

朝一番の八鬼山峠に始まり、三木峠、羽後峠、甫母峠、二木島峠、逢神坂峠といくつもの峠道を越えてきた、それぞれ

の道を思い出しながら宿に向かった。

巡礼供養碑 二木島峠 逢神坂峠

   
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    平成28年5月14日 (土曜日)  晴れ    
        新鹿 ~ 紀伊井田    
 
 6時25分、新鹿駅に着く、昨日は電車の都合で見なかった東南海大地震の記が里川橋の橋際に立っているので

少し後戻りをする。 里川橋の手前に天保二年(1831)の巡礼道標があり街道に面して「右 なち山」 左「いせ道」

とある、橋を渡ったところには昭和一九年一二月七日の東南海大地震の記が立てられている。

6時45分、徳司神社に参拝する、丸石を積んだ独特の石垣。

左には新鹿湾の朝の静かな入江があり、砂浜を犬で散歩をしている人の姿も見える。

天保二年の巡礼道標 徳司神社 朝の新鹿の浜

   
   
 7時、波田須の道入口の道標に従い進むと、5分ほどで国道に合流してそのまま進む。

今日も天気は良く晴れ上がっている暑くなるのかなあ?    トンネルの手前で左へ階段を上って波田須の道

へ入る。 小さい峠を登ると西行松の案内板があり、西行法師がこの茶屋の軒先の松のしたで一服したとか。

案内板を過ぎると点在する民家が現れ段々畑が広がる里山の景色が目に入ってくる。

集落を抜けて7時30分、山道に入ると波田須の道の案内板が立っている。 この道には伊勢街道の中でも最も古い

鎌倉期の石畳が残っている。 一つ一つが大きくて間を開けて敷かれている。

10分ほどで波田須神社に到着する、長い石段を登り参拝する、神社は山の中腹にあり、下の方には畑や民家JR線路

その先には海が続いている。

神社を出て国道を横断し下に見える徐福の宮へお参りする。

秦の始皇帝の命を受け、不老長寿の妙薬を求めて船出した徐福が、台風に遭いこの地に流れ着き、帰国を断念し

紀州へ住み着いた。 徐福は焼物、土木、農耕、捕鯨、医薬、などの中国文明を里人に教えたといわれている。

そのことから地元の徐福信仰は篤く、徐福の宮として祀られている。

鎌倉期の石畳 波田須神社 徐福の宮
   
 
 下った道を旧道へ戻って8時12分、文字岩へ着く、この地の領主だった、西丹後ノ守は父の敵討ちに現れた

夫婦連れを返り討ちにしてしまった。 このことを悔い後年自戒のために「勤・愼・忍」の文字を刻んだ大岩を屋敷

から見える場所に建てたといわれている。

文字岩から道標に沿って進み大吹峠入口に8時25分に着く、明るい竹林を登って8時40分大吹峠に到着する。

文字岩 竹林の道 大吹峠
   
 
 大吹峠には昭和25年ころまで大吹茶屋があり街道を行く人々の休憩所となっていた。

ここから猪や鹿から田畑を守るため江戸時代中期に築かれた猪垣が延々と続いている、峠からの下りも明るい竹林

の中、切り払われ日差しがこぼれている。したの方まで下りてくると昔はたぶん耕作地だっただろうと思われる石垣

を積んだ平らな土地が杉林となっている。朽ち果てた小屋の残骸もちらほらと。

山道が終わって畑沿いに集落へ出る、時計は9時7分、国道から階段を登って堤防を行く、大泊海岸の美しい砂浜の

向こうに鬼ヶ城方面を見渡す。

JR大泊駅を右手に過ぎて松本峠の登り口に9時25分に着いた。

峠からの下り 大泊海岸 松本峠登り口
   
 
 いきなり急な階段石畳がまっすぐに伸びている、登り口からすぐのところで水彩画を描いている二人連れがいる

きつい道が平坦になり回りが竹林になって9時50分、松本峠に到着。 大きなお地蔵さまが出迎えてくれる。

江戸時代の初め、建ったその日に妖怪と間違われて猟師に鉄砲で撃たれたという、足元に鉄砲の弾跡が残っている

 峠で休憩していると下の方から子供の越えが聞こえ、しばらくすると女の子二人を連れた女性が登って来た、

身軽な服装である、土曜日なのでちょっとここまで登ってきたという感じ。

峠から東へ5分展望台の東屋からは新宮まで続く七里御浜、約25キロが見渡せる、またその先へ進むと約1キロに

わたって大小の洞窟が並ぶ鬼ヶ城へと続いている。

松本峠への登り 松本峠 七里御浜

   
 
 峠に戻り下って行き右に木本高校を見ながら町に下りた、街道は木本神社の手前を右に折れて熊野市街を

抜けていくがまず木本神社にお参りする。 街道に戻り古い民家が残り落ち着いた雰囲気の市街を抜けて10時35分、

海沿いに出た。  堤防から海岸に下りて砂浜を歩く、、七里御浜の始まりで南に向かって砂浜が伸びている、

前方に獅子岩が見えてくる。

世界遺産にも登録されている獅子岩は高さ25m、周囲約210mの岩塊で獅子が大洋に向かって吠える形をしている。

見る角度によって本当に獅子が口を開けているように見える。

熊野市の街道 獅子岩 獅子岩

   
 
 砂浜から国道42号に上がり11時25分、花の窟神社(はなのいわや)に参拝。  祭神はイザナミノミコト、社殿は

なく高さ45mの巨岩がご神体、自然崇拝の姿を今に伝えている場所でここも世界遺産の登録地。

神社の境内は森に囲まれ木陰になっていてとても涼しい、先ほどの獅子岩からこの花の窟神社にかけては観光客

の姿も多い。神社で御朱印をいただいた。

七里御浜 花の窟神社 ご神体

   
   
 神社からはしばらくの間、海岸を離れ市街地を歩く、11時40分、JR有井駅前を通過、立石の信号から国道を横断して

再び七里御浜へ出る。 海を見ながら堤防を歩く、右は雑木林の防風林が続き森林浴をしながら歩くことができる。

左から熊野灘、砂浜、堤防、防風林、国道と並んで南に続いている。

11時50分、堤防に腰を下ろして昼の休みを取る、海風が気持ちよく過ぎてゆく。

堤防で昼休み 防風林の道 昼の休憩
                                                                         
   
   
 30分休んで、12時20分に出発する、七里御浜は熊野市から紀宝町まで20キロにわたり続く直線的な海岸線、

白い砂浜、玉砂利の浜が続き水際から100mくらいの堤防上を潮風を受け波音を聞きながら歩く、右は松が中心の

雑木林の防風林が続きその向こうに国道42号。 海を見飽きたら下の林の木陰に入り歩く、海ではところどころに

釣りをしている人を何人か見かける、砂浜から何を釣っているのだろう。

海岸を50分歩き1時10分、志原川尻へ出ると、雑木林の中に浜の龍神燈が立っている。 

高波鎮め神として地元の百姓たちが祀ったもの。  

一旦、国道を横断して旧道に入り志原橋を渡り、JR神志山の駅前の国道脇には巡礼供養碑があり、そこから

また海岸へ出て防波堤を歩く。 1時55分、紀伊市木の駅を過ぎると、市木川の河口に浜辺の水神塔が立っている。

先に見た龍神燈と同じく河口に堆積した砂利による付近の低地や田畑を水害から守るため、自然の力を恐れ

平穏を祈念して先人たちが立てたもの。

ここは市木川の河口、先の龍神燈は志原川の河口。

堤防上の道 浜の龍神燈 浜の水神塔
 

































 
 
 国道を渡って旧道の緑橋を渡った先に市木一里塚が立っている、昭和37年までは旧道を挟んで海側、山側ともに

塚が立っていたという。

2時10分、国道42号に合流して御浜町役場の先から七里御浜探勝歩道に入る。 林間の遊歩道になっていて左から

潮騒が聞こえてくる。 遊歩道を30分歩き2時45分、砂浜へ出て300mほど歩く、七里御浜はまだまだ先まで続くが

堤防、探勝歩道はここで終わる、国道を渡り2時50分、JR阿田和駅に着く。

旧道は駅前を通っていて銀行や郵便局のある街中を過ぎて3時10分、国道に合流、左に雲揚艦遭難の地の木札が

立っている。 明治9年、維新政府の軍艦「雲揚艦」が遭難、村人たちの必死の救助活動にもかかわらず荒天の中

二十余名の犠牲者を出した場所、尾呂志川の河口。

国道からはところどころに海へ出る道が開いている、井田川の手前で旧道に入り午後4時JR井田駅に着く。

ここで今日は終わりとし宿に向かった、松本峠を下りてからは、どこまでも続く七里御浜を歩き、海風を受けて

気持ちがいい一日だった。

市木一里塚 阿田和の街道 雲揚艦遭難の地
   
       
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     平成28年5月15日 (日曜日)   晴れ    
        紀伊井田 ~ 熊野速玉大社(新宮)    
   
 7時20分、紀伊井田駅を出発、駅の山側の細い道を登っていく左に海が見えてくる7時35分、道の真ん中に大きい

岩があるところへ出る、車も人も左右によけて通る。

7時40分、狼煙場跡を通過する、紀州藩の狼煙場として、寛永十二年(1635)に作られ、明治初年に廃止された。

左に太平洋、前方に見えているのは鵜殿の町か、山影で日差しをよけて涼しく感じる、もっともまだ朝の早い時間。

井田の一里塚跡をを過ぎる、7時50分、街道に祀られている横手延命地蔵にお参りする。

文政十年(1827)、徳川家斉将軍の時代に建立され今日に至っている。 病気平癒のご利益があるとされ毎年

一月の例祭には多くの参拝者でにぎわう。

街道、井田一里塚跡 太平洋を見下ろして 横手延命地蔵
   
 
 延命地蔵の先に首なし地蔵と導引地蔵が同じ祠に祀られている、この先で道が分岐し、旅人は道を間違え

やすかったことから、ここに地蔵が建立された。

住宅地に下りてなかを通り8時20分、紀宝バイパスを超える、ここで右折すべきを左方向へ行き大分行ってから

気付く、引き返し坂を上り住宅地を進む、時間を大分ロスしてしまった。

鵜殿の町を一望しながら耳切坂を下ってJA三重南紀に8時45分に出る。 紀宝バイパスを渡った先にある粥森さま

にお参りし9時、国道42号に出る、堤防の先は熊野川向こうは和歌山県新宮市。

首なし地蔵と導引地蔵 耳切坂 熊野川
   
 
 熊野川に沿って成川を左へ熊野川のゆったりとした流れを見ながら熊野大橋の歩道橋をゆっくりと渡った。

速玉大社前を右に曲がると前方に赤い鳥居が見えている。

9時20分、熊野速玉大社に到着、無事ここへ着いたことを感謝し本殿に参拝する、昨年中断したあとなので

無事着いたことには特段の思いが湧いている。

旅の間天候にも恵まれ、途中の体調も万全であったこと、気持ちよく送り出してくれた家族にも感謝してこの

熊野古道伊勢路の旅を終えることができた。

熊野速玉大社

 
   
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