西国街道 |
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奈良時代に国の情報物資連絡用に山陽道が整備され、下関、大宰府へと続く幹線道路であった。 江戸時代には伏見から西宮に至る道は「山崎道」と公称される脇街道となった。 しかし本街道である大坂経由より距離が短く川幅も狭いので西国諸大名の参勤交代の道として頻繁に利用された。 西宮から下関へ続く道を「山陽道」さらに九州へ続く道を総称して「西国街道」と称されていた。 京都から西宮間は「山崎道」が適切と言えるが、一般的には「西国街道」と呼ばれている。 今回はその西国街道を歩いた。 |
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平成24年4月25日(水曜日) 京都は晴れ | |||||
京都東寺口から茨木(郡山) | |||||
8時1分、京都に着く、新幹線南口を出て、東寺に向かう10分ほどで東大門に到着。 東寺、、正式には教王護国寺世界文化遺産にも登録されている、平安京建都の際に建立 され後、嵯峨天皇によって空海に下賜された。 以降、真言宗の根本道場となり、国宝の金堂はじめ講堂、おなじみの五重塔ほか多くの 重要文化財を所蔵している。 境内はまだ朝早いので人影もまばら、洛南高校に向かう生徒達が通り過ぎて行く。 見学をしていると、2人連れのお嬢さんに声を掛けられた! Woud you take a picture fof us ? ここは、にっこり I'd be glad to. シャッターを押して境内を見学、南大門を出て、いよいよ西国街道の一歩を踏み出した のは8時33分。 9条通りを西に少し行くと右手児童公園の中に羅生門跡の碑が立っている、 平安京朱雀通りの正面に立っていた羅生門だがこの碑を見て往時を偲ぶしかすべがない。 9条通り(国道171号)を5分程行って九条御前の信号を左に入る、うっかりしていると通り過ぎてしまいそうな交差点、 ここから吉祥院商店街抜ける、時間が早いせいもあるのかも知れないが繁華な商店街とはいえない、途中、 西国街道の表示もある。10分ちょっとで商店街を抜け国道171号を横切って桂川の土手に出る。 ここは国道の久世橋を渡り、直ぐに右に下りて橋をくぐって反対側の土手に出る、 堤防の道の草に半分埋もれるように、西国街道の道標が立っている。 道なりに進み菅原道真が大宰府に赴任する時、都を偲んで琴を弾いたと言われる琴引き橋を通って又、 国道171号を横切ってJRをくぐり向日町の駅前に出る。 |
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時刻は9時45分、向日町の駅前を通って阪急の踏切を渡り、左に旧道は続いている。 常夜灯や西国街道の道標も見られるようになり、よく整備された道を行く。西山高校の あたりから緩やかに上って、府道67号(西京、高槻線)と合流する交差点に、須田家住宅がある。 明治30年代まで「松葉屋」の屋号で醤油の製造販売を営んでいた旧家で京都府の文化財に指定されている。 府道67号をしばらく進み五辻の交差点で府道を離れる、このあたりは長岡京跡が近いがそのまま進み、 10時25分、一文橋を過ぎる、洪水の度に流される橋の修復に膨大な費用が掛かるため、番人を置き渡り賃として 一文を徴収した、日本最初の有料橋ともいわれている。10時45分、長岡京駅に来たところでスーパーで小休止、 向日町から長岡京にかけての街道はよく整備されて歩いていても気持ちがいい。 神足を過ぎ山崎に入ると街道はぐっと狭くなる。 京都西郊の低い山がぐっと近づいてきた、湧き上がるような若葉が目に入る、この時期萌えだして間もない 淡淡とした感じの若葉がいい、もう少し時間が過ぎると若葉が青葉になり少し猛々しくなる。 右前方は天王山が見えている。 11時54分、阪急大山崎の駅に来たところで昼食休憩とした。 |
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昼食後、街道を離れて、ちょっと寄り道、JRを渡って山崎聖天にお参りする。長い石段を登って振り返ると若葉を透かして 淀川の向こうに見えるのは、岩清水八幡から橋本の辺りだろうか? ここは天王山の中腹、ここまで来れば天王山にも上って見たいところだが、それは無理 というもの、宝積寺に寄り、千利休が作った国宝の茶室「待庵」がある妙喜庵にも寄りたいがここは予約が必要。 1時に街道に戻ると、JR山崎駅の前に離宮八幡宮があり、境内には「本邦製油発祥地」の碑がある。 離宮八幡宮をでると直ぐに小さな溝があり、山城と攝津の国境となっている。「従是東山城國」と刻んだ国境碑が立っており、 京都と大阪の府境である。 そばに関戸大明神があり、古代の関跡である。 国境というと峠か大きな河川を思い 浮かべるが、ほんの一跨ぎで国境を越える、中仙道の美濃と近江の国境ももっと小さい 溝であったことを思い出した。 ここからは大阪府島本町、この先少し行きJAの先左に入ると、水無瀬神宮がある。 後鳥羽上皇の離宮があったという地に建つ神社で、境内には大阪府で唯一名水百選に選ばれた「離宮の水」が湧く井戸があり、 ポリタンクを持った人が水を汲みに来ていた。 街道に戻り10分ほど歩くと桜井の駅跡に着く。 太平記によると、足利尊氏を迎え撃つ ため京都を発った楠正成はここ桜井駅で、わが子、正行に後事を託し河内へ引き帰らせ 湊川の決戦に向かった。 青葉茂れる桜井の 里の辺りの夕間暮れ 正成の鎧の袖を濡らしたのは涙であったか、夜露だったか・・・・・・・・ 目の前の桜井駅跡は、野外学習の高校生達の話し声で賑わっていた。 |
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桜井の駅を後に拡幅された道を進むと青葉2丁目の先で左に曲がって行くが、旧街道は右に狭い道を行きJR をくぐって 上牧山手町に出る、これが西京、高槻線、途中、梶原一里塚を過ぎる、時刻は2時15分、右手は山が迫り名神高速、 左にJR,阪急が通っている。 3時に高槻駅前に着く、昔少しの間住んでいたが、すっかり様子が変わっている、商店街を横目で見た時に少し昔の面影 を思い出した。 芥川の一里塚の前から芥川橋までの400mほどの間が芥川宿である。 昔ながらの細い街道筋に白壁や格子窓の家などが残り昔の面影を残している。 芥川橋から上流を見ると、鯉幟がいっぱい 川に張ったロープに風を受けて泳いでいた、時刻は3時16分、西日が射しているが風もあり気持ちがいい。 3時30分、今城塚古墳に着く、周囲に二重濠をめぐらした、前方後円墳で、継体天皇の陵墓と推定されている。 今は公園に整備され、親子連れが夕時前の一時を楽しんでいる。 3時45分、街道に戻り茨木市に入ると、太田茶臼山古墳がある、宮内庁はここを継体天皇陵としている、左に電気工場の 広大な跡地を見て、4時25分、名神高速の下につく。 耳原の阿為神社には、八重桜がさいていた、時間も4時半を過ぎ今日はどこで終わろうかと考えながら歩いていると、 白井河原の合戦跡に来た。 攝津の支配をめぐって池田の荒木村重と高槻の和田惟政との戦いで、池田側の中川清秀が 惟政を倒し、茨木城主となっていった、と説明板がある。 5時ちょうどに新豊川橋に着いた、バス停もあり明日の出発にも便利なので今日はここで終わりとした。 久しぶりに歩いたが、足も問題なく無事に歩くことが出来た、西宮までの半分32キロほど歩いたのだろうか? ホテルに入って汗を流し一休みしているとテレビでは、ダルビッシュがヤンキース相手に快投を演じたニュースが流れていた。 明日の天気も心配だが疲れもあり、そのまま眠ってしまった。 |
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4月26日(木曜日) 大阪は曇り | ||
茨木、郡山から西宮 | ||
夜のうちに雨が降ったらしい、地面が濡れている、雲は低いが今は降っていない、 関西地方の天気予報は降水 確率60%、特に午後からは高いと・・・・・・・・・ 雨の降っていない午前中に少しでも距離を稼ごうとホテルを出る。 8時5分、新豊川橋のバス停に着く、通勤の人や通学の学生はかさを持っている、こちらも傘とカッパはリュックの一番上に 用意する。 昨日の終わりの場所から歩き始めて直ぐ郡山宿に入る。 郡山宿本陣、 御成門のそばにあった椿が毎年五色の花を見事 に咲かせるので「椿の本陣」と呼ばれ親しまれた。 この本陣は西国の大名が頻繁に利用している、赤穂の浅野内匠頭も 宿泊した記録があり、大石内蔵助の書が掲額されていると言う、無料で見学できるが時間が早いのであきらめる。 郡山宿本陣を後にして豊川、小野原とよく整備された道が続いている、道幅も当時とそんなには変わっていないと 思われる。 国道171号の少し南を並行するように道が続いている 、雨は降らない、 いいぞ! おかげで涼しくて歩くには最高。 道筋の常夜灯や西国街道の道標、祠などを見ながら歩き、西宿2丁目で一度国道171号に合流新御堂筋を越して 直ぐ左に入り緩やかに坂を上って行くと、白壁の立派な屋敷が見えてくる。 萱野三平旧邸である。屋敷は公開されているが時間は10時からで、今は9時40分、庭までは入ることが出来るので 庭から見学をする。 「忠臣蔵」の早野勘平で知られる人物で、 父、重利の主人、大嶋出羽守の推挙により播州赤穂の浅野家に仕官、 元禄14年、浅野内匠頭の刃傷事件を赤穂の国許に知らせる使者として、早駕籠で萱野の生家の前を通り過ぎる時、 偶然にも母の葬式に出会ったが、主君の御用のためそのまま赤穂に向かった。 その後仇討ちの一党に名を連ねたが、 大嶋家に迷惑がかかることを恐れた父の許しが得られず、元禄15年1月14日、自宅長屋門の一室で自刃、27歳の生涯を 閉じたという。 |
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萱野三平邸を後に箕面市牧落で国道171号を渡り牧落2丁目の辺りで雨がパラパラと きた、 お!やはりきたか、と思って傘を出すかと考えているうちに阪急の踏み切りに きた、時間は10時10分、パラパラなのでそのまま歩いて阪急桜井駅まで来ると雨は止んだ。 10時25分旧瀬川宿に入り、瀬川・半町本陣跡にきたが、自動車教習所になっていて説明板が立っていた。 そのまま進み箕面市と池田市の境を通って171号ともつれながら、石橋駅の南石橋坂大下で斜めに入って行く、 11時住吉神社に着いたところで一休み、このあと街道は中国自動車道で途切れている、高速道路の下を通り少し行くと 兵庫県に入る。 箕面川に沿って進み下河原緑地公園を抜けると、大阪国際空港(伊丹空港)の滑走路の北の端にエアフロントオアシス がある。 空港を見渡せるようになった公園のような施設で本当にまじかで飛行機の離発着を見ることが出来る 時計は11時35分になっている、見物の人と一緒に、JALやANA機の離陸を3機見送った。 昼も近づいてきたが、猪名川の軍行橋を渡り直ぐに土手を左に行き、化学工場の間を進むとJR宝塚線を渡って 少し行った右手に辻の碑がある。 西国街道と多田街道とが交差する場所に立っている。 長年の風雨に晒されて読み取れないようだが、 記録によれば、「従東寺十里。従関戸七里。従須磨七里。従天王七里。従大小路七里」となっており、辻村が攝津の国の 中央であることを標示するために建てられたという事らしい。 時刻も12時を回ったので近くの喫茶店で昼食休憩にする。 |
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西の空が晴れてくる、12時35分、午後のスタートを切る。 出発して直ぐ近く左へ60メートルほど入ったところに泉式部の 墓がある、伊丹市の街道は大鹿、千僧、昆陽と進んでいく、街道脇には説明板や道標が立っていて目を留め読んだり、 読めなかったりしながら歩き、国道に合流すると昆陽寺がある。 朱の山門を構え僧行基の開山と伝えられている。 この先国道脇に師直塚が立っている。 西昆陽の交差点で国道から右に入り武庫川の土手に出る、武庫川を越える 髭の渡し跡である。 この渡しは明治42年下流に甲武橋が掛けられるまで続いたと言う。 常夜灯と説明板が立っている、辺りは 一面武庫川の河原。時計は1時50分、下流の甲武橋を渡る、正面に甲山、その後方には六甲の山並みが続いている、 橋を渡って対岸に戻るまで20分以上かかった。 土手道を左に下りて報徳学園の前を通り、西国街道の標示に従って左に曲がる、西宮市の旧街道は曲がり角や要所に 西国街道の標示があってわかりやすい、2時40分門戸厄神の駅を通過、3時前街道を離れて、広田神社に向かう、 表参道あたりは工事中であったが、3時を過ぎた広い境内に人影はまばら、本殿にお参りし、社務所で小学生の二人の 孫の学業成就のお守りを受けた。 広田神社は天照大御神荒御魂を御祭神としており、中世には貴族達にとって都の西方にあることから西宮と別称され、 西宮参拝と称された。 後、西宮は広田神社の社領をさす言葉となったが、それが現在の西宮の元になったと言う。 街道に戻り、終点西宮神社を目指す、京都から途中何度も着いたり離れたりしながらもつれあってきた国道171号を 南へ横切りJR神戸線、国道2号線、阪神電鉄をくぐってその先を右折して進むと、前方に西宮神社の表大門が見えてくる。 十日えびすの日に男達が並ぶあの門である、門を入って本殿に参拝、時刻は4時15分になっていた。 ここの社務所でも、今一人の孫のため子供お守りを受けた。 西宮のえべっさん、として親しまれている西宮神社は 全国のえびす神社の総本社として古くから崇敬されている。表大門と大練塀は重要有形文化財に指定されている。 境内を見学、時刻も4時を過ぎているので人も少ない。 この後近くの宮水の湧出地を見た、さてこの西国街道は 当初3日かかるかと思っていたが、2日ですんでしまった、明日はどうしょうかなあ? 無事西宮に到着したことに安堵しながらも少し考えたが、ホテルに着いてから明日のことを考えることにして、 西国街道歩き旅は無事完了した。 |
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