おかげ参りの道 | ||||||||||||||||||||
暗越奈良街道・上街道・初瀬街道から伊勢本街道 |
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玉造稲荷神社 伊勢本街道起点の碑 |
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江戸時代庶民の間で大流行した伊勢参り(おかげ参り)の道は、上方からの場合、大阪玉造が起点となっている。 暗越奈良街道、上ツ道、初瀬街道を経て伊勢本街道に入り伊勢神宮内宮までの170K の道のりである。暗越奈良街道は生駒山脈の南側、 暗峠(標高455m)を越え大阪と奈良間を最短距離の8里8丁(34K)でつなぐ古代以来の古道の一つ。豊臣時代に整備され江戸時代には旅人、 物資が行きかう大動脈であった。 奈良からは、ほぼ真南へ向かって上街道(上ツ道)が通じている、箸墓古墳、三輪大神を経て初瀬街道に入り、長谷寺門前を通り、伊勢本街道に入り いくつかの峠を越える 山間の道を通って伊勢まで通じている、街道脇に残る古い道標や大神宮灯篭が往時を彷彿とさせてくれる。 |
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1. 玉造稲荷〜奈良 2.奈良〜榛原 3.榛原〜御杖村 4.御杖村〜横野 5.横野〜外宮 6.外宮〜伊勢神宮 | ||||||||||||||||||||
戻る | ||||||||||||||||||||
平成25年5月13日 (月曜日) 晴れ | ||||||||||||||||||||
玉造稲荷から奈良 (暗越奈良街道) | ||||||||||||||||||||
朝4時半、自宅のあたりは弱い雨が降っている、まだバスがないので傘をさして駅に向かう。 新横浜6時発の新幹線(ひかり)西へ向かう時は この電車に乗る、神戸までは後発の(のぞみ)にも抜かれない。 どんよりとした空が続いていたが、浜名湖を過ぎる頃から晴れてきた。 8時25分、新大阪に着き環状線玉造駅から玉造稲荷に8時50分に着く。 まず神社に参拝し、今回の旅の安全を祈願する 玉造稲荷神社は垂仁天皇18年(BC12年)に祀られたと伝えられ、ご祭神は伊勢神宮外宮と同一神の豊受大神さま。 古代には「日本書紀」に記された玉造部の居住地でもあった。一方近世に至っては、豊臣家が大坂城の鎮守神として祀り、その後、 徳川の世になっても大坂城代着任のさい当神社に参拝し定紋の提灯を奉納する等その厚い信仰は引き継がれた。 境内には豊臣秀頼公が奉納した鳥居(慶長8年(1603)3月吉日銘)が阪神淡路大震災により基礎部分に損傷を生じたが、 建立以来400年間「大坂城の鎮守神」としてその歴史的シンボルに幕を閉じ鳥居の上部が保存されている、豊臣秀頼の像、 上方のお笑いの父、秋田實笑魂の碑、伊勢迄歩講起点の碑などがある。 出発の記念にと神社の事務所の人がシャッターを押してくれた、9時10分、170K先の伊勢神宮へ向かって出発する。 |
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大阪は晴れあがり、いい天気というより、間違いなく暑くなりそうな空、遠慮なく日が照っている。 東に見える生駒山を目指して歩く、玉造駅を過ぎてすぐ 二軒茶屋、石橋の碑がたっている、この道の両側に明治中頃まで、つる屋、ます屋の茶店があり市中から暗奈良街道へ旅立つ人をここで見送り別れを 惜しんだ、石橋は黒門橋といい、慶安3年(1650)幕命により架けられた当時では珍しい石作りの橋であった・・・・・・・説明文による 玉津橋を渡って右折旧道を進み東成警察の前を通って今里筋を渡り、旧道を進み高麗橋から4.9キロ表示の碑を過ぎ国道308号に出たところに、 今里の道標が立っている。文化3年(1806)に建てられたもので [左 なら いせ 道] 上部を四角にくり抜いて火袋にしその上に 傘石を乗せた珍しい形で夜間には明かりをつけ道行く人の便宜を図ったものと思われる、道路拡張のために現在地の東20mから移されたもので 当時は暗奈良街道と八尾街道の分岐点に立っていた。現在は向きが違っているという。 国道308号に出て東に歩く、前方に山上にTV塔が立っている生駒山が見えるその方向にほぼ一直線で東進する。 道は何時の間にか東大阪市の市域に入っている。 町工場を多く見受ける、ロケットを飛ばす技術を持つ中小企業もこの町にはあるという、生駒山麓までは市街地を歩く、東に向かっているので 太陽を正面から受ける。 もう27度くらいあるのだろうかだんだん暑さを感じるようになった。 二軒茶屋・石橋の碑 高麗橋から4.9キロ 街道筋 文化3年建立の傘灯篭 |
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中央環状線が高架で通っている下を過ぎて時刻は11時15分、昼までにどこまでいけるか、スズキの建物を過ぎて右に入る十字路に古い道標が立っている、 その先右手の八釼神社にも古い道標が集められている。菱江の交差点から旧道が分岐している、左斜めに入って進んだ、菱江の旧村の東端「もちの木地蔵」 の前に、「天保2年2月吉日 太神宮 おかげ躍子中」と刻まれたおかげ灯籠が立っている。 前年の文化13年は伊勢神宮の遷宮の年(おかげ年)に当たり 伊勢参りの感謝として伊勢講の人たちによって建てられたもの。 11時35分、河内警察の前に出て府道に合流する、歩き始めて2時間半、山が近く大きくなってきた、街道沿いには古い道標が多くみられる、通行する人が多 かったことを表しているのだろう。 11時47分、暑さも増して昼が近づいてきた、ラグビーのメッカ花園ラグビー場が右手府道の向こうに見える、シーズンオフの今は歓声もなく静かにたたずんでいる。 ラグビー場の前を左に入り松原宿に着、宿の入り口に松原宿跡の碑と説明板が立てられている。 松原宿は、江戸時代に入って、明暦年間(1655〜1658)に 幕府が街道支配のために、又、街道を行く旅人のために街道間唯一の宿場として設けられた。多くの旅人や物資の積み替えで賑わい、大和屋以下14件の宿屋、 橘屋以下9件の茶店があった。 道が直角に曲がる角に( 右 なら、いせ道 左 大坂 道) と刻まれた道標が立っている、生駒山も目の前に迫り枚岡に入った豊浦町で道沿いの 食堂で昼食休憩にした。
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ここから先、生駒まで街道沿いにコンビニや食堂はないということで、時間は12時15分になっている、食堂に入って冷たい水を飲む、のどにスウット通って 何よりもおいしい、生き返ったような気分になる。 12時半、出発する、道は国道308号に合流する、10分程で近鉄の線路をくぐり右手にある枚岡神社にお参りする。 暗奈良街道を通るのに素通りも出来ない、枚岡神社は河内の国の一の宮である。 神社へ上る参道から振り返ると大阪の街がよく見える。 12時55分、近鉄線のところまで戻り暗越えの峠を目指す、いきなりの急な登りになる、民家の間を道幅2m強の道が続いている、これでも国道である、 国道308号の表示がある。 車もほとんど通らない途中地元の車とおぼしき軽トラと2回ほどすれ違った、奈良へ向かう車は阪奈道路を通るのだろう、家のある部分はすぐに終わって 木々に包まれた道になる、道は急、一歩一歩と進めるが汗が噴き出す、大阪平野がだんだん下に広がってくる遠く六甲の山並みも見えている。 登り始めて周囲は枚岡公園の林になている、右の谷底から川の音が聞こえてくる、芭蕉の句碑が立っている。元禄7年(1694)、病を押して伊賀を発った 芭蕉は旧暦9月9日、重陽の節句(菊の節句)に奈良から大坂に向かって暗峠を越した、その時詠まれた句 「菊の香に くらがり登る 節句かな」 この暗峠が芭蕉の最後の旅となり、大坂に入って間もなく10月12日に亡くなった。 この道は山に向かって真っすぐに登っている、つづら折れではない、こんなにしんどいとは思っていなかった、道を登り詰めたあたりに急に田圃が 開けている3〜4軒の民家が建っている、そしてその先のぼり始めて40分頂上に着く。 大阪と奈良の府県境で峠付近は石畳が敷かれ茶店もあって、 寄って一息入れる。
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暗峠 往古ここは平城京と難波を最短距離で結んだ暗奈良街道が生駒山を越えるあたりで、古事記にも見える「直(ただ)越え」の道の一つとされ、 現在も万葉以来の往古を偲ばせている。茶屋でゆっくりと休んでから出発する、ここからは下り、登りが急なら下りも急、向こうに生駒の街、更に丘陵の向こうに 奈良盆地が見える。 今度は背中から首筋に日を受ける、峠の茶屋でボトルに冷水を満たしてもらったのを飲みながら快調に道を下りていく、途中藤の花やつつじが咲いて、 疲れた気持ちをちょっと癒してくれる。 14時40分、近鉄南生駒の駅を通過する住宅地内を街道は通過している、大瀬中学校の先で左折するこのあたりで旧道の道筋は不詳になる。 住宅地を上がって、再び旧道が現れるところに、足湯があった、「歓喜の湯」となっている、まさに歓喜の湯だ、時間も気になるが疲れた足を休めるため 寄ることにする。 足を湯に浸すと足の疲れが抜けていくような気がする、西の方には越えてきた生駒山系が見えている、暗峠から下っている道が白く見えているが、 暗峠は連なっている山脈の鞍部で一番低いところだ、昔の人もちゃんと分っていたんだなあと感心する。 足湯に10分ほど浸し15時20分、気分も新たに出発、 榁の木峠に向かう、ここは暗峠のように急ではないが緩やかに登っている、急に狭くなり2mちょっとのやはり国道308号、15分ほどで山を抜け15時50分追分に着く。 暗奈良街道と郡山街道が交わるところで追分本陣がある。 村井家住宅が現在本陣として奈良市指定文化財となっている、村井家の建物は大和棟形式と呼ばれ茅葺きと瓦葺きを組み合わせたもの、今も「本陣」「松平阿 波守御宿」と墨書された宿札が保存されているという。
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16時には尼ヶ辻に着きたいと思っていたが、思惑より1時間遅れている、この季節は日が長いので安心ではあるが、第2阪奈有料道路を渡って、 砂茶屋の集落を過ぎる、下校する小学生が駆けてゆく、16時17分、奈良6キロの道路標示を見る、再び第2阪奈道路の下を通って住宅地区の細い道 を抜けて奈良県立病院の先で右折、旧道を進んで16時47分、垂仁天皇陵に出る。前方後円墳の後ろの部分になる、街道は真っすぐ東に奈良へ 向かっているが回り道をすることにし、ぐるっと回り込んで前方の正面に出て御陵に参拝する。 間もなく5時、遅れている時間が尚遅くなるがここまで来たのだから唐招提寺、薬師寺に回ることにする、5時をすぎれば境内には入れないとは思ったが、 せめて山門でもと思って足を延ばした。 両寺とも固く山門は閉じられている。 南都六宗の律宗、法相宗の大本山である両寺にはもう何十年も昔に来たことがあるが、伽藍や塔が再建され当時とはすっかり様子が変わっているはずなのだが・・・・・ 17時30分、街道に戻り奈良に向かう、あとは三条大路(国道308号)が直線で奈良興福寺の南円堂前まで伸びている。 6時10分、明治45年3月建立の灯籠が建っているJR奈良駅を通過、三条通りを歩いて6時20分、南円堂前に到着し本日の終了とした。 大阪の市街地は暑く、峠越えでは思いのほか急で鶯のさえずりも聞く余裕もないくらいだったが、街道沿いには、古い道標や太神宮灯籠が残り、 お伊勢参りが盛んだったことを感じさせる街道だった。 十分満足してホテルに向かった。
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平成25年5月14日 (火曜日) 晴れ | ||||||||||||||||||||
奈良から榛原 (上街道・初瀬街道・伊勢本街道) | ||||||||||||||||||||
猿沢の池の向こうに興福寺の五重塔が見えている、池畔を散歩している人ベンチに腰を下ろして休んでいる人、朝早くから人々は動き出している。 6時20分、猿沢の池から南方向へ奈良町へ進んでいく、古い町並みが残り風情のある通りが続いている。うだつの上がった土蔵風の建物、漢方薬の店、 白玉の老舗、墨、蚊帳、を商う店などを見かける、時間が早いのでもちろん店は開いていない。元興寺跡の碑が建っている。 奈良町一体は奈良時代(8世紀)の元興寺の金堂や塔、南大門など主要な伽藍があった地域と推定されている。中世以降奈良町の発展に伴い寺地の大半 は住宅になっている。元興寺は現在は華厳宗の寺院で、境内には奈良時代の元興寺の塔跡があり多くの文化財が伝えられている。 奈良町を過ぎてJR京終駅の近くまで来ると道の右に大きな常夜灯が建っている、時刻は6時52分、ここから街道はJR桜井線(万葉まほろば線の愛称)と ほぼ並行して平坦な道が一直線に南に向かって進む。左右の見通しが開け右手遠くに生駒山の山並みがかすんだように見えている、田植えの終わった 田を抜けてくる風は心地よいが間違いなく今日も暑くなる。 右手道のそばの大きな池が赤く見える、金魚の養殖池だ、少し右手の大和郡山は金魚の産地。 1時間近く歩いて7時20分、街道の両側に前後して帯解寺がある。子安地蔵で知られる華厳宗、地蔵院で、千年の昔、不妊に悩む文徳天皇の后、 染殿皇后が当寺に祈願をかけて清和天皇を安産したという。 今も皇室の崇敬に厚い寺。子供が生まれる予定も、つくる見込みもないがお参りし 線香をあげる、このすぐ先左にもう一ケ寺の帯解寺がある。
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街道を南へ進み7時50分、楢神社に着く、楢神社はご祭神は吉備津彦命で、そう昨年山陽道を歩いたときの備中の一宮、 吉備津神社と同一神である。 境内には第8代市川団十郎が奉納した井戸がある。 柿本人麻呂の生誕地と伝わる櫟本町に入ると、ここの街並みも古い建物がよく残っていて、廃藩置県の名残の 「大阪府奈良県警察櫟本分署跡」の建物が残っている。 8時5分、西名阪自動車道の下をくぐる、左手の在原業平とその父を祀る在原神社を過ぎる、小さな石の道標があり (右 いせ 左 なら)ここを右に曲がる。 左手遠方に大きな特徴のある建物が見えてくる、天理市の中心部に入る、あちこちに教団の建物が目につく。 背中に教団名を記した黒の半纏を羽織った人たちとすれ違うようになる。 8時半、天理駅を過ぎたところで大きな声でお祈り(正しい呼称は知らない)を唱えながら、歩いている2〜30人の 集団に出会う半纏を羽織った人や若い人から歳の行った人まで、見慣れないと異様に思うがこの街では 日常なのだろう。 街道を進むと急に道が広くなり丹波市跡に着く、街道左手に市神神社がある、天理市の旧地名である 丹波市村の市の神として古くから信仰を集めている。 古来から栄えた「市」の跡として現在も神社前の街並みが保存され、昭和のいつまで使われていたのだろうか 木造のアーケードが残っている。
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天理の街中で少し離れたが街道はずっとJR桜井線と一緒に南へ向かっている、にぎやかな塗装をした電車が過ぎてゆく、 左右が大きく開けて田園地域に入る、道が大きく左(東)へ曲がる角に芭蕉の句碑が建っている (草臥(くたび)れて 宿かる比(ころ)や 藤の花)文化8年(1814)の春に建立されたもの。 貞享4年(1681)に江戸を発って故郷伊賀上野で越年した芭蕉は翌年3月、弟子の杜国とともに、吉野、高野、紀伊、大和、 須磨、明石を巡った。 この時の旅を綴った「笈の小文」に収められている・・・・・・・説明文より 国道を渡って再び右折し南に向かう、9時半、右手に大和神社(おおやまと)があるので参拝する。広大な森に囲まれた 境内は静まりかえっている、戦艦大和にはこの神社の分神が祀られていた、太平洋戦争で沈没した戦艦大和と戦死者の 御魂を祀っている。 街道に戻り柳本の街に入り、五智堂を過ぎる、その少し先の黒塚古墳に立ち寄る。 柳本の街も街並みが整備されて、いい雰囲気の家が並んでいる。
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左前方に湧き立つような若葉を繁らせた森が見えている、崇神天皇陵だ、 少し離れているので寄らないで過ぎる。 やがて街道はJR線を渡りJRの西側に出る。 前方にこんもりとした森が近づいてくる箸墓古墳である、全長280m、後円部160m、前方部幅140mの 巨大な前方後円墳で倭迹迹日百襲命の墓と伝えられているが邪馬台国の卑弥呼の墓とも言われている。 街道は後円部をかすめているのでぐるっと前方へ回って田のあぜ道を通って正面に出てみた。 10時40分、街道に戻る、予想通り暑くなっている、背中のリュックが汗で張り付く、道の照り返しがきつい。 10時56分、三輪明神、大神神社(おおみわ)の一の鳥居に着く。神社にお参りする,467mの三輪山を ご神体としていて本殿はなく拝殿を通して三輪山を拝む原初の神祀りの姿をとどめている。 古くから大和文化発祥の地で政治、経済、文化の中心地であった。さすがに平日にも関わらず多くの 参拝客が出ている、ここで健脚のお守りを受けた。 30分ほど時間がかかり街道筋に戻る手前で少し早いが昼の休憩にする、朝6時にホテルを出てから 5時間半ほど経過している、店主と話をしていると、山の辺の道、近隣遺跡の資料などをいただく。 地元三輪そうめんの定食で冷たいのど越しを楽しみ、30分ほど休んで12時5分、出発する。 日差しはいよいよ強く道路を白く照らしている。この日は昨日に続いて関西地方は気温30度を越していたらしい。
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恵比寿神社前を進み出口橋で左折して金谷の集落に入る、山の辺の道はここにその末端がつながっている、 山の辺の道を少し後戻りして金谷の石仏による。 民家の裏を進むと山際の建物の中に、二体の石仏が収められていて、右が釈迦、左は弥勒と推定されている。 高さ2.2m、幅約80pの粘板岩に浮彫にされた仏像は古くは貞観時代新しくても鎌倉時代のものとされ、 重要文化財に指定されている。と説明がある、金網の間から写真を一枚。 もとに戻るとすぐ日本最古の市といわれる「海柘榴市」跡がある、山の辺の道の南端にあたり、 古来より人や物資の集散で賑わった場所で、また当時の男女が声を掛け合い歌を交換した 「歌垣」が行われた場所ともいわれる。 万葉集 「紫は 灰さすものぞ 海柘榴の 八十の衝に 逢える児や誰」の歌碑が建立されている。 そして街道は上ツ道と初瀬街道の交わる慈恩寺追分に出る。 「左 はせ いせ 道」の道標が立ち、 近くに仏教伝来地の碑が建てられている。
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時刻は12時40分、街道は東へ向かい初瀬街道となる、午後の日差しは容赦なく後ろから首筋に当たる、 日本手拭を帽子の中にたらすと幾分かましになる。 初瀬街道は桜井と伊勢の松坂をむすんだ道で、平安時代に流行した初瀬参りの道として当時は貴族が中心であったが、 後世になり伊勢参りの途中に立ち寄る庶民も多かったという。 国道165号と交わりながら、旧道も残している、13時40分、近鉄朝倉の駅に通じる道を過ぎ十二柱神社のある出雲集落に着く。 武烈天皇の泊瀬列木宮跡とも言われており、参道入り口には天保2年銘の大神宮常夜灯がある。 初瀬川沿いに道は進み長谷寺の門前に到着する、13時55分、昨年秋にもお参りしたが、ここはやはり寄って行くことにする。 門前を10分ほど歩いて山門で入山の切符を買い、長い登廊を登って本堂にお参りする。 長谷寺は真言宗豊山派の総本山として、また西国三十三か所第八番札所として、「花の御寺」としても多くの人々の 信仰を集めている。 全面に舞台が付いた本堂は国宝、ご本尊は十一面観世音菩薩で重要文化財である。 この時期牡丹の寺として知られているが、時期的に少し遅く名残の牡丹を見る。 1時間近くを費やし14時45分、参道のくさ餅やの角の伊勢辻道標に従っていせ方面への道に入る。
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下化粧坂を下り国道165号に出る、宇陀市に向かって所々に旧道を残しながら緩やかに登って行く。 田植えの済んだ田圃の右手の山の中腹を近鉄線の電車が通り過ぎる。西峠に向かって登りが続く、 途中水を補給しながら背中から太陽を受けて歩く坂は続く、上に見えていた鉄道が同じ目線に見える 位置迄上がってきた、15時27分、宇陀市に入る近鉄線が視線の下に見えるようになる、しかし坂は続く、 15時35分西峠頂上に着く、ホッーと一息水を飲む、この先は榛原への下り。榛原も古い家並が残っている、 長谷寺と室生寺の中間に位置する榛原は西峠や墨坂に古代日本の数々の伝説を残し史跡に富んだ町である。 国道から旧道を下りていくと町筋に(伊勢本街道)の表示が商工会と自治会によってあげられている。 札の辻に来ると「左 あお越え道 右 伊勢本街道」の大きい道標が立っている。 ここで険しい峠を越し最短距離で伊勢を目指す伊勢本街道と、距離は遠くなるが名張を回る伊勢表街道に分かれる。 札の辻には本居宣長が伊勢街道を歩いて吉野山へ詣でたときに投宿したと「菅笠日記」に書かれている 旧旅籠「あぶらや」が残っている。 伊勢参りや初瀬詣で、室生詣でなどの巡礼で伊勢本街道の宿場町として栄えてきた様子が伺える。 街道から少し離れて近鉄榛原駅に寄る、駅前の観光案内所で (伊勢本街道最大の難所 大和高原「うだの難所を行く」)という地図をもらった、 明日歩く予定の山間部、曽爾村、御杖村の道中が詳しく書かれたもので明日おおいに役立ちそう。 今日はここで終わりとする。 しかし宿泊予定の宿まで1キロほど街道を歩き16時30分、早めにホテルに着いた。 今日も暑かったが、朝早めに出発したのであちこち寄りたい史跡にもより、早く目的地まで着くことができた、 今日は温泉なのでゆっくりと温泉に入り足をいたわることとする。 部屋にも風呂はついているがやはり手足を思い切り延ばせる大風呂がいい、湯はちょっとヌルヌルの感じ、 温泉を実感する。 ゆっくりと温泉に入り6時からの食事に行く、喉を過ぎるビールが命をよみがえらせるようだ、 西の山端に沈んでいく夕日を眺めながら、遠くを通る電車の音がかすかに聞こえる、今夜は早く寝ることにしょう。 あすは山道の峠越えがあるので・・・・・・
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平成25年5月15日 (水曜日) 晴れ | ||||||||||||||||||||||||||||||||
榛原から御杖村 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
昨日は早めに宿に入ったので温泉に入りゆっくりと休んだ、朝5時、鶯の声で目覚める、贅沢な目覚めである、 山の上の方には既に日が射している。 今日は山間部の歩きになる、大きな峠を3か所越える、帰りの時刻も気を付けなければバスを逃すと 2時間待ちになる、そんなこんなを考えて6時に出発する。 宿は山の中腹にあるので小鳥のさえずりがよく聞こえる。朝の空気は清々しい道を下って昨日の街道の 終点に来る。 御杖村26キロの表示が出ている、これは車で走る国道の距離、6時10分、本日のスタートを切る。 道は国道369号に重なっている、左に宇陀川が流れている、まだ自動車もあまり通らない、10分ほど歩いた左手に 船尾垣内の道標がある。「右 いせみち 寛文4年/奉供 養巡礼同行12人 / 左 やまみち 10月15日」 脇の説明板に、表面が風化して読みにくくなっているが、昭和53年、宇陀地域の道標を訪ね歩いていた 愛好者が拓本をとって読むことができた。奈良県内最古の道標と言われている。 1664年は徳川4代家綱の頃で、伊勢参りはふつう巡礼とは言わないので観音巡礼講の人々が供養と旅人の便宜を はかって建てたものと考えられている。と記されていた。 少し進んで2本の杉の木の間に山の神が祀られている。このあたりまだ道は平坦、右手に御井神社を拝み、 犬と散歩中の人に会い挨拶を交わす。山峡の道でまだ日は当たらない、6時35分、民家の庭先を通り山道に入る 、激しく犬に吠えられる右下に国道が通り道は人1人がやっと通れるくらいで狭い。 (おいせまいり)と赤く書いた木札がかかっている。 この木札には、この先何度もお目にかかることになる、伊勢本街道保存会の皆さんによるもので、 山の中で道を間違えないようにの気遣いがうれしい。この道は短くまた国道に下り高井の集落に着く。
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奈良交通高井のバス停を左に入り旧道を登って行く、旧家と思しき家がある、旧庄屋、旅籠を過ぎて 杉林の中の道を進むと、千本杉が見えてくる、根幹は16本の杉が集まって一株のようになっており、 根回り35mに及ぶ吉野杉の古木で、株元には杉が自然に水を集める作用を利用した古い井戸がある。 時刻は7時6分、杉林を出て津越辻で道標に従い右に道をとって赤埴地区を通って吉野杉の林を通る、 樹林の間を木漏れ日を浴びながら進み、途中から地道になる、7時33分、吉野杉の林の中にある 諸木野関所跡に到着する。この関所は室町時代中頃(長禄2年・1158)に興福寺大乗院によって設けられ、 代官は興福寺の僧侶が務めていた。室町時代後半には廃止されたようだ、伊勢本街道には多くの 関所が設けられ、荘園領主が通行税をとった、このことが当時の旅人を悩ましたと説明されている。 杉林の中に道は続き、7時40分、数軒の家が建つ諸木野集落に出る、往時は9軒もの旅籠で賑わっていたが、 現在は石割峠下の静かな山村で隠れ里のような雰囲気である。 集落奥から再び植林地帯に入る、 道が荒れて地道となり、この街道最高地点である石割峠(695m)に向かう登りにかかる。
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緩やかに登ってきた道が突き当り、いよいよ山道にかかる所に、説明板が立っている。 街道の最初の難所と言われた石割峠は、腰を下ろすところもないほどの狭い切通しで、 初瀬から次第に高度が上がってきており、峠の標高は695m、生駒山(642m)より高いところを越える。 峠を越えると室生に入り坂を下って行くと右手に「右 いせ/左 原山道」と読める道標が立っている。 その石には宝暦3年(1753)施主、 左に10月吉日 と刻まれている。9代将軍家重のころで当時、 伊勢参宮だけでなく、原山から室生寺へ参詣する人が多かったことがわかる。 紀伊半島交流会議伊勢街道分科会による説明板 まだ朝のうちで元気があまっている、両側に熊笹が生えている道を登って行くと意外に早く8時22分、 石割峠に着く。 ここが街道の最高地点なんだと、ちょっと思いが入る。峠からの下りは道がやや広くなっている、 やはり杉林の中、5分ほどで峠の登り口にあった室生と伊勢の分岐点、笹原の道標に着く。 ここを右に下りて行くと、集落に出る手前で地元の人が2人溝浚えの作業をしている、いつものことでホットする。 奥室生の田口宿でやはり興福寺大乗院の荘園であった。 伊勢の国と大和の国を結ぶ伊勢本街道の田口の宿場としてかつて多くの旅籠があった。街道は專明寺の境内を通って進む。
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9時、道は血原橋で県道に出て少しの間合流し県道から左へ杉林の中へ入っていく、林の向こうで間伐材だろうか 杉の木の皮をむいている、ツルツルとした感じで京都の北山杉のように見えるがこれは吉野杉。 杉林を通って黒岩地区に来る、少し広くなって田圃が広がる、田植えはもう終わっている、田圃の脇の道を歩く、 やがて又、杉林となり山粕峠の登りになる、今朝歩き始めてから3時間半、汗も出ているので風が心地よい、 杉の間からの木漏れ日を受けながら登る。9時45分、頂上に着く、ここは楽に登った。 峠を下ったところは山粕宿、奈良県曽爾村になる。近世の山粕にも旅籠や茶店が並んでいたようで、 山粕バス停近くに「元伊勢街道 問屋屋敷跡」の碑が立てられている。 10時5分、問屋屋敷跡の碑を左に入る、山粕川を渡ると、TV番組(家族に乾杯)で見た光景が広がる、 「めだかかいどう」の行燈を家先に出していて、水槽でめだかを飼っている。あの番組以降だろうか? 山粕宿を過ぎ山粕東口バス停先休憩所のところを右に杉林へと入り鞍取峠の登りにかかる。
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明るい杉林の登りが続く、ここでも赤い「おいせまいり」の木札に方向を助けられる、登りは500mほど15分で峠に着く。 ここを下れば御杖村、下りは登りよりも長いそして急勾配、山道を下りたところに白髭神社と休憩所があった。 神社から道に下りると同年輩と思われる地元の人に会った。 休憩所に腰を下ろしてしばらく話す、時刻は10時50分になっている。 榛原からこんなに早い時間に鞍取峠を越えて着く人はいない、若い人でもだいたい2時頃だという。帰りが心配なので、 朝6時に出発したからですといった。これからの行程と帰りのバスのことを聞くと、ここから13キロを歩いて、道の駅からバスで 名張へ出るといいと教えてもらう。その他、御杖村で見ておくといい箇所なども話してくれる。 ここは桃俣宿、吉野道との分岐で吉野詣でや長谷、伊勢参りの人で賑わっていたと、10分ほど休んでお礼を言って出発する。 流れる川は青蓮寺川となっている、国道369号を少し歩き、左に青蓮寺川を渡って旧道を土屋原の集落を行く、 右に川や田圃や家を挟んでその向こうに国道369号が見える、今日も日は照りつける、昼近くなって気温はあがる 、水を補給しながら歩く、このころはあちこちに自動販売機があるので飲物を買うのに大変助かる。 堂前の三叉路に道標と案内標識がある、道の照り返しが目にまぶしく白く光る、右には透き通った川が流れている、中に入りたい・・ ちょっと民家が途切れて左へ桜峠の道に入る。 未舗装の山道だが勾配は緩く上り下りで700mほどの短い区間。 抜けると目の前にドームの屋根の円形の建物が現れる、おしゃれな御杖小学校である。 小学校の前で一旦国道に出てすぐ北側に残る旧道に入る、道で作業中の人にこの先食事をするところがあるかを聞く、 ちょっと先に役場があるのでそこの食堂へ行けばいいと教えられる、誰でも入っていいらしい。 歩いているとちょうど12時の合図のチャイムが聞こえる、右に役場が見えている、教えられたとおり役場へ行きそこの 食堂で昼食にする。 背中の荷物を下ろすと肩が軽くなり、リュックで少し胸が締まっていたのが解けて大きく息をつく。この食堂で40分近く休んだ。
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12時40分、午後の出発、駒繋橋を渡って菅野宿へ入る、御杖村の主邑で、初瀬から8里、宿泊の適地で多くの旅籠があった、 集落の入り口にある駒繋橋は倭姫命が伊勢に向かう途中ここの杉の木に馬を繋いだことから名がついたという。橋の前に 「左 いせみち 右 はせみち」の道標と、天保3年(1832)の常夜灯が立っている。 ここから先、御杖村の家々の軒先には、「伊勢本街道 みつえの里 すがの宿」とかわいいイラスト入りの飾り行燈が架かっている、 夜になり灯が入ればきっと幻想的な家並みが街道沿いに浮かび上がることだろう。 左に安能寺の山門が見える、曹洞宗の寺院、街道を右に入り、四社神社にお参りする、 天照大御神、伊邪那美命、譽田別尊、天津児屋根命の四神をお祀りしている。 伊勢本街道の要地で境内近隣は参宮の参拝者で大いな賑わいを見せていたという。 時刻は12時56分、御杖中学校近くを左に進み菅野川を渡って牛峠に向かう。1キロほどの緩やかな上りが続く、 道は舗装された車道、このあたり山に藤の花が咲いている。 13時30分、峠を越えて、神末集落へ下りてゆく、西町辻に太神宮灯籠と道標が立っている、 家の玄関に注連飾りをかけた家を多く見受ける、中には神棚をあげている家もある、伊勢神宮が近づいていることを感じる。 (といってもまだまだ遠いが) やがて街道は佐田峠に着くここで時刻は1時56分、峠には首切り地蔵がまつられ、道標がある、 緩やかな坂を下って敷津集落に入る、少し周囲が広くなり田んぼでは田植えの準備が進んでいた。 田の中の道を進み14時10分、道の駅 伊勢本街道御杖村への分岐に来て今回の伊勢本街道歩きはここで終了とする。 三重との県境まであと、2キロもないが帰りのことを考えて、ここまでとし道の駅に向かう。 道の駅3時発のバスでたっぷり1時間、名張駅から近鉄特急で名古屋へ出て新幹線で家についたのは8時半、 疲れたけれども楽しい街道歩きの旅だった、また次回・・・・・・・・
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平成25年6月10日 (月曜日) 曇りから晴れ | ||||||||||||||||||||||||||||
御杖村(宇陀郡敷津)から横野(松阪市飯南町) | ||||||||||||||||||||||||||||
新横をいつもの6時のひかりで名古屋で近鉄に乗り換え、河口に近い木曽三川の鉄橋を渡る頃は、日差しが強く窓のカーテを引く。 名古屋から四日市方面へ通勤の人で近鉄特急も満席の状態で座席は埋まっている、携帯が鳴りだす、今日泊まる予定の宿から、 今日はどうされますか? と・・・・・ 台風のせいか雨になりそうで今にも降ってきそうですという。 どうと云って今、四日市を過ぎたところです、ここまで来ているので 今日は歩きます、泊まりもお願いしますと伝えて切る。 名張でバスを待つ、山の御杖村の天気が気になる、まあ雨も覚悟しておくか、10時10分のバスで11時8分に前回バスに乗った敷津につく。 伊勢本街道、5月に歩き終えた敷津の大神宮常夜灯に11時18分に到着、ここから本日のスタート。 どんよりとした雲が空を覆い、 山の上の方は間違いなく雨が降っている。 雨合羽と傘はリュックの一番上に用意している、雲が下りてこないように願いながらも、不安な気持ちがこうじてくる、歩き始めてすぐに、 倭姫命(やまとひめのみこと)が、この岩の上から中秋の名月を鑑賞されたと伝えられている月見石、弘法の井戸、夫婦岩と街道の草の中に続いている。 雨が降らないように、降っても大降りにならないように願いながら集落のはずれ、丸山公園に着く、ここから三重県との県境に向かって岩坂峠を下る。 少し下ったところに姫石明神が祀られている。 姫石明神を過ぎると杉林の中の下り道、石がゴロゴロしたガレ道、転ばぬよう気をつけながら下りる、 坂を下りると左に大洞山が見えている。 国道に合流したところに休憩所が整備されている、その先が三重県との県境になっている。 雲が切れている空の様子がさっきまでの山の上と明らかに違っている、雨になる心配はなくなったようだ、時計は11時45分、ちょっと早いがここで 名張で買ったおにぎりで昼食にする、雨の心配がなくなり吹く風も気分がいい。
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12時、出発、国道を右に下りて三重県に入る、行政区画上は津市美杉町杉平地区になる、竹藪の山道を通り集落に出て、石名原宿に入る。 この先、左へ2キロ入ったところの三多気の桜は国指定の名勝だが桜の時期は過ぎてしまった。 街道左の小高いところに「太一常夜燈」が立っている、 天保15年(1844)のもの常夜燈の位置は昔と変わっておらず、道路が下がったとのこと。 「伊勢に行きたい 伊勢が見たい せめて一生に一度でも」 江戸時代の人々にとっては伊勢への旅は生涯の願いでした。 岩坂峠を下ったここ杉平は大和と伊勢の国境の地、伊勢の国に入ると竿石に「太一」と彫られた常夜燈が多く目につく。 これは伊勢神宮御用の印として、式年遷宮においては用材運搬のさいの帽子や宮大工の帽章などに太一の文字を見ることができる。 と 「伊勢街道」 連絡協議会による石名原宿の説明板が立っている。 石名原宿は家々が屋号を掲げている。(江戸屋・太郎生屋・桐屋・米屋・等々)そして玄関には正月のお飾りを付けている、 年末に取り換えてそのまま1年間飾っているという。 国道と合流する三叉路に「いせみち」と刻まれた自然石の道標が立っている。道は緩やかに下っていく、12時25分国道から右へ分かれていき、 また国道に接したところで、飼坂峠5Kの表示を見る、そして12時45分、石名原と奥津の境界の境橋を渡り美杉町奥津に入る。 いつの間にか後ろから日差しが背中に照りつけている。
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伊勢奥津はJR名松線の終着の町、街道沿いには江戸屋、かぶとや、尾張屋、坂本屋などの古い屋号を染め抜いた暖簾を掲げた家々が並び、 旧宿場の風情を強く残している12時55分、伊勢奥津の駅前を通過し、稲森酒造の前で右折、雲出川に架かる宮城橋を渡り須郷地区となる。 昭和22年まで営業していた旧旅籠の名残を残した建物が残っている。 13時5分、札場跡が左に、慶應年間、当時の渡会県太政官が伊勢参りの人々へ通行手形を渡した場所跡で、慶應4年に太政官から出された布告が 掲示されている(コピー) この地区の家々にも「のれん」が出ている、名松線と雲出川が左へ離れていく、家が途切れ山と川に挟まれた青田を風が 撫でていく、田に張られた水が光っている。 10分ほど歩いて右の谷合へ入る手前に「太一」「請願成就」と刻まれた常夜燈が立っている。文久4年(1864)に建立されたもの。
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13時15分、集落のはずれ正念寺の前の谷川を渡り右に飼坂峠の上りにかかる、国道が少し離れて左上を通っているが通過する車両も少なく時折車の 音が聞こえるくらい。 舗装された道を上っていくと、道の脇、林の中に「首切り地蔵」が祀られている。峠越えのさい犠牲になった人たちの成仏を願い建立されたといわれる。 国道を横断し人1人が通れる山道に入る、国道は右のトンネルを抜けていく、急な杉林の道の途中に「腰切地蔵」があり腰の部分が切られたように割れている。 山賊が旅人を襲ったことを物語る、難渋した昔が偲ばれる。上り始めて35分、 伊勢本街道の難所の一つで険しく淋しい道、江戸時代の国学者、本居宣長も大和から松阪への帰途、駕籠で越えつづら折りの急坂の様子を記している。 峠にはかつて、休み茶屋があり茶屋あとが残っている。 50メートルほど離れた展望台からはこれから下りてゆく上多気の集落が見えている、 ここで小休止をとり14時に下りにかかる。
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下りは早い、7分で下り国道が右から並行してくる、下り着いた上多気は、伊勢国司、北畠氏の本拠、街道脇を水路が流れ風情ある街並みに入る。 八手俣川に架かる大橋手前の十字路に 「すぐ いせ道」 裏面に 「すぐ はせ道」と刻した嘉永6年(1853)の道標、向かいには元治2年(1865)に 建てられた常夜燈がある、高さ4.9mあり参宮街道に数ある燈籠の中でも最大級のもの。道標と常夜燈は神宮への道しるべであり村内安全と参宮道者の 道中安全を祈願して建てられたもの、夜ごと明かりが灯され、その燈火は怖い飼坂を下ってきた旅人達の心を安堵させたに違いない。 街道右手角は旧旅籠「三木屋」跡が残り、いずれ復元の予定であると。 初代伊勢国司、北畠顕能卿をご祭神とする北畠神社は左500mにあるが、遥拝するに留める、南朝の重臣、伊勢国司として230年間続いた北畠氏は、 伊勢神宮に近い田丸城から、山間部のこの地に移りここを本拠地とした。 上多気は伊勢本街道の要所として栄え、特に伊勢信仰の盛んであった江戸時代には多くの人がこの地を踏み、宿場として明治中頃まで大変な賑わいで、 夜ごとに伊勢音頭の唄声が聞かれたという。 大橋を渡り町屋に入り結城屋旅館を過ぎる、時刻は14時20分、 暑さを感じる木陰や建物のかげに入ると汗が引く心地よさを感じる。
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上多気を過ぎ、立川に入り14時33分、文政年間に創業後明治中頃に廃業するまで参宮道者でにぎわったという旅籠車屋の前を通り サカムカエ場(逆迎え場)に着く。 小さな広場になっていて、伊勢参宮の盛んな頃、伊勢の参宮から帰ってくる多気の伊勢講の人たちを家族や子供たちが出迎えた場所で、 伊勢のお土産を楽しみに、みんなで道中歌の伊勢音頭を唄いながら家路についたという。 集落を外れて国道を進むと左手の杉の木の下に湧水が出ている、名水「鶯の水」をペットボトルに汲む、柔らかく甘くさえ感じる、 日は照っているが風が涼しい。 14時57分、国道から左へ入る、誰も住まなくなった家が残っている、道は国道と着いたり離れたりしながら奥立川を進む、 美しい河川や杉林の景観を見ながら15時26分、美杉と飯南の境界の不動橋を渡り松阪市域に入る。峠地区にくると、数軒の家が残っているが、 この集落は昭和50年に廃村となった、無人の家の軒先に「おいせまいり」の木札が架けられているのが寂しさを誘う。 無人の峠集落を過ぎて櫃坂峠に着く、多気から次第に道を上りつめた場所。
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15時35分、国道から右に下りて櫃坂峠の下りに入る、この峠道は昭和の初期学童の安全通学のため新しく開かれた道だという。 廃村になった峠集落の子供たちや住人がこの道を生活道路として使っていたということだろうか? 本来の街道は古坂道が別にあり、その道は平成23年、仁柿住民協議会を中心とした地区に人たちによって復旧されている。 全長15丁の表示があり下りるにつれて14丁、13丁と減って行き歩く励みになる。 もっとも今は下っているので足も進むが、 参宮を終え上方方面に帰るときの旅人はどんな気持ちでこの山道を上がったかと思う、これを上ってもまだまだ大阪は遠い、 また峠の子供たちは毎日この道を通って通学していたことを思うと何とも言葉がでてこない。 約2キロの長い坂道を下りて里に出る、ここからは仁柿川に沿って下っていく、16時、国道368号に合流する、車の通行はほとんどない。 澄んだ水の仁柿川、歩いている道、広くない田圃、街道沿いの家々で育てている花、美しい山村の景観を楽しみながら上仁柿、下仁柿と進んでいく。 16時10分、お寺の石垣の下の道標に「右 いせ宮川へ九り」と刻まれている。 時計はもう4時半を過ぎている、午後からはずうっと日が照っている、 弘法大師の御堂、長瀬不動尊、文久3年(1863)の常夜燈が集まっている、今日の最終予定地まであと2キロほど、国道から右の田の中の道へ下りていく、 明治初期の常夜燈が立っているが民家と工場の影になってちょっとわかりにくい、クランクして道は川べりを行く、17時20分、国道に出てすぐ左へ 横野の街並みの中へ進む、前方に柿野神社の森が見えてきた。 17時半、柿野神社に到着、和歌山街道と伊勢本街道が合流する横野にあり、明治42年に村内の神社を合祀し柿野神社となった。 社殿は伊勢神宮様式の神明造りで、境内には天保元年銘の3mを越す「大神宮常夜燈」が本街道から移設されている。 「大神宮天下泰平是ヨリ宮川江七里半」予定通り、今日はここまでとし、宿に連絡して迎えに来てもらう、山道があるので雨を心配したが 天気になって助かった、安堵して迎えの車を待った。宿まで歩けば30分もかかる。 夜のニュースでは、台風3号の影響で明日は天気が悪くなるようだ。台風は温帯低気圧に変わって海上に居座るらしい。
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6月11日 (火曜日) 雨 | |||||||||||||||||||||||
横野から外宮 | |||||||||||||||||||||||
雨が煙っている、心配していたがやはり雨になった、昨日の終点、柿野神社まで女将さんに送ってもらう。 7時45分、カッパに傘のスタイルで雨の中出発する、少し歩くとやや雨足が強くなるそれでも膝を濡らすような本降りの雨ではない、 梅雨期特有の降り方細い雨である。 国道に出ると車の通行が多い、通勤の車か松阪に通じる国道166号、和歌山街道である。道路の左に柿野郵便局として 平成元年まで使用されていた旧飯南郵便局舎が残されている、平成23年に国登録有形文化財に登録された。 右下には櫛田川このあたりでも意外に大河である、自転車に乗った学生が過ぎていく、8時18分、深野大橋を過ぎて 国道は左へ分かれていき、上出地区に入る、かつてはこのあたりに旅籠が点在していたという。8時30分、庚申堂に来る、 正面の石垣に「大石の道標」が組み込まれている。 「大石宿 これより宮川へ七里 はせよりここまで十五里半」と刻んである。 国道との交差点大石町を過ぎる。
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大石町に入り連子格子の家並を行く、雨は降り続いているが大した降りではない、長時間歩くにはやはり傘がないと濡れてしまう。 再び国道に合流し櫛田川が大きく右へカーブするところ、8時50分、「大石不動院」に着く、真言宗・金常寺、境内の街道に沿った炮烙岩に 天然記念物のムカデランの群落が養生している。不動の滝や移設された常夜燈が境内にある。 弱い雨になってきた、波多野橋を過ぎ、 小片野町を通る、犬の散歩をしている人は傘もさしていない。 9時、旧道が国道を離れ右に進む小片野公会堂から 南小学校にかけて緩い上り坂、小片野東交差点で国道を渡り、上出江口の交差点で国道は左へ松阪へと分かれていく。 ここから県道を緩やかに上って峠の頂上に着く、雨は間断なく降っている、ズボンを濡らすほどではないがそれでも足元は湿気てくる。 峠を下って9時35分、文政13年(1830)の常夜燈が茅原神社の前に移設されている。 「天下泰平 両大神宮 五穀豊穣」と刻されている。 つばな保育園を右に旧道が続く、道端の庚申塔にはきれいなグラジオラスが供えてある、 住む人の心のやさしさがうかがわれる。やがて道は紀州と勢州の境、櫛田川の「津留の渡し」に着く。
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「津留の渡し」 「はかり石」・・・・・ 伊勢街道連絡協議会の説明板による 松阪市茅原町と対岸の多気町津留を結ぶ渡しで、宮川の柳の渡しと共に伊勢本街道の難所の一つ。険しい山道や峠の難所をやっと越えて 比較的なだらかな山間の道をたどる参宮道者たちの行く手を櫛田川の深い谷が遮ります。 普段は渡し舟ですぐ渡れましたが、水が増えると川止めになりつい目の前で足止めされてしまう難所でした。 街道から左へ昔の茅原の船着場に下りて行くと「右 さんくう 左 まつさか道」と刻まれた道標が立っている、 この渡しの川の中に「はかり石」が置かれて水量を図る目安とした。岩の上に埋め込まれた切石が水没すると川止めになり、何軒もあった宿屋がにぎわった。 もとからあった切石は昭和34年の伊勢湾台風で流失したが、平成22年に修復され往時の姿の戻った。
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櫛田川を渡り多気町に入る、東に向かって道は伸びて、家並は断続的に続いている、伊勢本街道の指さし表示に従い左へ細い道に入る、 田の中の道を進み10時半、伊勢自動車道の下をくぐる、左に田圃、右は麦畑、刈り取られた畑もあるが麦の穂が黄金色に輝いてまさに麦秋の観。 このあたりの集落は牧、雨は止んだ、櫛田川に沿って相可を目指す。 道の右手に「佛足石」碑が立っている、地元の人は「足神さん」と呼んでいる高さ1.5mの碑。 佛足跡とは釈迦の足跡、仏教が広まったころ 仏像の代わりにこれを拝んだ。街道を旅した人たちはこの足神さんに草鞋を奉納して旅の安全を祈願した。碑には草鞋が架けられていた。 川の流れは素晴らしく向こうの山の雲もとれてきた、雨も止んでいる左は川、街道、右に1枚の田圃そして山、点在する集落を通って田の中を行くと 「伊勢三郎物見の松」があり現在は5代目の松だという。 県道に戻ると相可に向かってほぼ一直線に道は続いている。11時半、伊勢本街道最大と云われる「四疋田の常夜燈」が道の東南角に建てられている。 高さ5.5m、県道の整備で移設されたもので弘化2年(1845)と裏に「石工 根来惣右衛門」と刻まれている。本街道中には同名の石工の常夜燈が多 く見受けられると云う。 常夜燈を過ぎると相可の町に入る。
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街道に覆いかぶさるように椋の大木が張り出している、根元には明治45年(1912)に建てられた西行法師の歌碑 「つかれぬる 我を友よぶ 千鳥ケ瀬 こえてあふかにたびねこそすれ」 西行法師が伊勢参宮の途中、このあたりで千鳥の鳴く声を聞き 詠んだと伝えられている。 以来この地を千鳥ケ瀬と呼ぶようになった。 碑の傍らには賽の神が祀られ、寛政4年(1792)の自然石の燈籠が立っている。 街道の両側に相可高校があり、道を渡って生徒たちが移動している。 伊勢本街道と熊野街道が交差する「札場の辻」に11時45分、に着く。 高さ1.4m・幅22pの道標が立っている 正面に「伊勢本街道」、東面に「すくならはせみち」、西面に「くまのみち」と彫られている。またもう一基の道標には正面に(左指さし) 「さんぐうみち」 右側に「右 まつさかみち」 後ろに「左 くまのみち」 とある。 ここは三叉路になっていて、むかし制札場であった、またここで盆踊りを催したので踊り場とも呼んでいたという。 この辻には相可名物のまつかさ餅の「長新本舗」、鮎の甘露煮の「みなとや」の店がある、この先信号を渡った広小路には 明治中頃まで車屋の屋号だった元旅籠「鹿水亭」が建っている。
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相可の街並みを過ぎて国道42号の下をくぐり田園地帯に出る、JR紀勢本線の踏切を渡ったところで12時になる、左には田圃が広がり 佐奈川を渡って西池上の町となる。 止んでいた雨がここで降りだす、明るかった空に雲がかかり、山も霧雲に包まれる、霧雨の少し強いほどの雨、しまっていた雨具を取り出す。 金粒丸の大きな縦看板が出ている「本家金粒丸」の前を通りかかる、今はもう営業していない。看板は風雨にさらされて読みにくくなっているが 「本家勢州神山薬師前いけへ村 御免きんりゅうくはん 江戸芝神明町分家之外無類大好庵店」と刻まれているらしい。 金粒丸は外宮近くの万金丹と共に、伊勢土産として知られた旅の常備薬。 東池上を過ぎて街道は丘陵地帯に入っていく。
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ダイヘンの工場のフェンスに沿って歩き、林の中へと入っていく、相可から田丸へと続く丘陵地帯は古くから「渡会の野」と呼ばれ、 内宮祀官であった荒木田氏が開拓した歴史がある。 昼なお暗い森の道を歩いていると昔日の面影がよみがえる。道が大きく切り通しになり「伏し拝み坂」に着く、文政10年(1827)の造成という。 かつて峠道があり里人に神宮までの道程を聞いたところ思いのほか遠かったので、参宮をあきらめここから伊勢神宮を伏し拝んで帰途についたという。 切り通しの崖をかつての峠まで上ると林の中に「両宮遥拝所献燈」と刻まれた石碑が建っていた、ここから神宮方面を拝んで帰ったのか、 もう少しであったのになあ・・・残念 時刻は1時10分。伏し拝み坂を下り田の道を通り田辺集落を過ぎて雨の中、田丸に着く。 城下町田丸は北畠親房、顕信が南朝義軍の拠点として城を築いたが足利方に攻められ、北畠氏が多気に移って、 後に織田信勝が三層の天守閣を備えた城を築いた。 明治維新に廃城となり石垣だけが残り県の指定史跡になっている。堀に架かる玉城橋の左に朝日新聞を創刊した村山龍平記念館がある。 そして14時15分、熊野街道との合流地点に到着する
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本日の予定地点まで来た、ここで止めるか雨も降っているし、明日の天気はどうなのだろうか? 低気圧はゆっくりと海上に停滞しているらしいし、としばらく考えた。 明日の天気はわからない、明日は明日の風が吹くと、時間もまだ早いので先に行くことにする。 14時20分、再び気分を変えて出発する、これから先はおまけみたいな気分だがどこででも止めるわけにはいかない、 せめて次の駅に近いところまでは最低歩かなければならない、南へ新田町、湯田町と町を過ぎてゆくがこのあたりで 雨が本降りになる、田丸で止めておけばよかったかなとちょっと思う、田丸までの雨とは勢いが明らかに違っている、JR参宮線の踏切を越えて、 上地町に入る小学校の下校の時間に重なる、雨の中を小学生が勢いよく走っていく。 雨が小降りになったと思うと、思い出したように降りだす、 田の中の道に出る、雨を除けるものがない、カッパが蒸れて着ているものが水に浸したようになっている。 いよいよ伊勢市に入る、宮川に出る堤の手前に明治から昭和にかけて政界で活躍し、憲政の神様とうたわれた、 尾崎咢堂記念館が白亜の姿を見せている、寄って行きたいところだが、こちらは取り込み中、カメラに収めるに留める。 堤に上がると宮川の広い流が目に入る、「柳の渡し」「桜の渡し」「磯の渡し」と三つの渡しがあったという。 山中の飼坂、櫃坂、鞍取坂と並び称された難所であった。 大和、西国、熊野からの参宮客をここで対岸の山田へ渡したのがこの「柳の渡し」であった・・・・・堤の説明板 今は100m下流に架かる渡会橋を渡る、橋の上は風があるので傘をすぼめながら歩く、橋を渡って右に道をとり市街地に入る、 式年遷宮で奉曳車の曳かれる道を通り15時40分筋向橋に着く。 関西方面からの参宮道、伊勢本街道と 関東、中部方面から津を通る伊勢街道はこの筋向橋で一緒になり神宮へ向かった、外宮はもうすぐ。 外宮手前に「小西万金丹」薬舗が街道に面して切り妻造りの重厚な姿を見せている。 店内には古い看板が保存され通行人も見ることができる。 15時50分、外宮、豊受大神宮に到着、天照大神の食事を司る豊受大神が祀られている。 遷宮の準備が進んでいて新しくなった鳥居をくぐって正宮にお参りする、雨はほとんど止んでいる、新しい正宮の屋根が見えている、 雨の中でもお参りの人の姿は行きかっている。 内宮へは明日の楽しみにして本日はここで終わりにした、宿に向かい疲れを休めよう、雨のなかは疲れも倍増する。
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平成25年6月12日 (水曜日) 曇りから晴れてくる | |||||||||||||||||||||||||
外宮から伊勢神宮 | |||||||||||||||||||||||||
窓の外を見る、曇っているが雨は落ちていない、空も少し明るく雨にはなりそうにない、心配していた台風も東へ針路を変え 温帯低気圧に変わったらしい。 外宮前を8時55分にスタートする、内宮まで4キロほどの道、伊勢の街は秋の遷宮を控え、 「祝 御遷宮」と白地に染め抜いた幟旗が道路や商店の店先など各所に立っている 。マリア保育園を左に入り近鉄線をくぐって小田橋を渡る。 尾上町から緩い上りになって古市に入る。 古市は江戸の吉原、京の島原、大阪の新町と肩を競った遊里で 旅人が精進落としのひと時を過ごした歓楽街であった、70軒もの妓楼があったと言う。今は商店が混在する住宅街になっている 。街道脇の古市芝居之跡碑、遊郭油屋跡碑や左へ60m入ったところに200年にわたり今も営業をしている旅館「麻吉」に往時の賑わいを 感じることができる。
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大きな両宮常夜燈の前の坂を下って「猿田彦神社」にお参りする。 ご祭神の猿田彦大神は天孫降臨の際に 道案内をされたと云われている。 時刻は10時、内宮はもうすぐ、浦田町の交差点を渡り門前町のおはらい町へ入る、土産物屋や老舗和菓子屋でに 賑わう通りを通って10時15分、が宇治橋に着く。 大坂、玉造稲荷から始まり遠かったお伊勢参りの道中も宇治橋を渡って内宮参拝を終えれば終焉を迎える。 宇治橋を渡り神宮の神域に入る、五十鈴川御手洗場で手を清め内宮へと進む、この頃になると太陽も顔をだして 神宮の森を通した木漏れ日が落ちている、時間も早いがそれでも、さすがに参拝者は多い。 新しい正宮の建物が現在の正宮の向かって左に屋根の一部を見せている。 10時35分、正宮の前に進み伊勢神宮へ参拝をする。 石段を下りて、下で記念の一枚を撮る、今日は時間もあるので、別宮の荒祭宮と風日祈宮にもお参りする、ゆっくりと境内を歩き、 五十鈴川の澄んだ流れと目の覚めるような若葉、展示の花ショウブなどを見ながら再び宇治橋を渡り神宮を後にする。 人での増えてきた、おはらい町通りやおかげ横丁を見て回り12時52分、宇治山田発の電車で帰途についた。
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